山小屋の赤い屋根




梅雨が明けたら、ガンガンの日射だ。
それでも日の出前の安曇野は香り立つ風が吹く。
久しぶりに常念岳が静かに姿を現し、もうすっかり夏の山だ。
雪は谷間に少し、常念岳と横通岳の鞍部の雪田は点になった。
常念からなだらかな稜線を左へ視線を移していくと、ピークらしくもない蝶ガ岳に到る。
上高地から登ってくる人たちが高山植物穂高連峰の絶景をめでる山。
我が家にいながら、双眼鏡で稜線を眺めてみた。
人が見えるはずもないが、なつかしい稜線が心を引きつけ、呼んでいる。
何か見えるといいがなあ。
蝶ガ岳の南面は傾斜が急になり大滝山に続く。
蝶のピークから北へ高低の少ない尾根道を双眼鏡でたどると、
赤いかすかな点が見えた。
あれ?
山小屋ではないか。
平坦な稜線のそこだけが少し低くなっていて、そこに山には存在するはずもない赤い点、
山小屋の屋根に違いない。
きっと蝶ガ岳の山小屋だ。
はあ、こんなところなのか。
小屋の周辺は平坦になっていて、草地かハイマツ地帯なんだろう。
赤い屋根の山小屋に今どれくらいの人が憩っているだろう。
やっぱり行かねば、登らねばという思いが湧く。
佐渡渓谷から6時間の登行か。


山小屋というとなつかしい。
けれどもほとんど泊まってこなかった。テント暮らしばかりだった。
最近の山小屋では、夏はいろんな催しもあるらしい。
常念小屋でも蝶ガ岳の小屋でも、フルートなど音楽の演奏会があったりする。


昔、剣岳合宿が終わって北さんと二人で大日岳周りで称名の滝に下ったことがあった。
人に会わない静かな尾根道を行くと、大日小屋の前に来る。
小屋には夫婦の小屋番がいて、ぼくらの山靴の音を聞いて小屋から出てきた。
泊り客の姿はなく、たぶん数日来一人も客が来なかったのだろう。
メインのルートではない大日岳のコースにある小屋は、低い屋根の簡素なつくりだ。
陽が高く輝いていた。
訪れそうにない客を待つ夫婦のなつかしそうなあいさつに答えて、しばらく休憩してよもやま話をしていくことにした。
「北さん、あれあったな。」
あれ、というだけで北さんは諒解した。
非常食の一つに持っていた、大阪名物の粟おこし、何枚かを包装した包みをキスリングザックから取り出す。
「これ、どうぞ食べてください。」
小屋番の夫婦に差し出したら、二人はとても喜んでくれた。
「ちょっと待っておくれ。」
二人は小屋の前に摘んできたワラビをざるに入れて干していたが、小屋の中からすでにゆがいたのをどっさり袋に入れて持ってきた。
「これ食べてください」
ひゃあー、こんなに食べきれないよ。
でも夫婦の気持ちを考えて、いただくことにした。
山小屋には、暮らしの匂いがあった。
夏の間、小屋番がそこに暮らすだけで、人間のなつかしさがただよう。
ぼくらはワラビをザックの中にしまいこんで夫婦に別れを告げ、下山に移った。


ゆがいてあったあのワラビ、その晩麓でキャンプすれば食べられたのだが、そのまま強行軍をして富山に出て夜行列車に乗った結果、
大阪に帰り着いたときは、夏の暑さにすっかり傷んでしまい、食べられる状態ではなかった。