荻原守衛(碌山)と高村光太郎

穂高碌山美術館がある。日本近代彫刻の先駆となった荻原碌山の彫刻が展示されているこの美術館は、地元の人々、学校の生徒も手作業で参加して、50数年前に建設された。教会風の建物やログ風のシックな建物が、秋は紅葉に染まる庭木に囲まれ、小さいけれども、心落ち着き、和み、癒される空間になっている。すぐ横を鉄道の大糸線が走っていて、1時間に上り下り1本ずつぐらい、コトンコトンと電車が走る音が聞こえてくるのも、のどかなものだ。この美術館に高村光太郎の彫刻も置かれている。光太郎と碌山は、1906年(明治39)、アメリカ、イギリス、フランス美術留学のなかで知り合い、それ以後日本に帰ってからも親しい友人となった。
光太郎は、守衛のことをこんなふうに書いている。
「彼が日本に帰ってきたのが1908年、32歳で死んだのが1910年、彼の日本における彫刻活動はたった2年間に過ぎない。その2年間によくもあれだけの業績をあげ、あれだけの影響を後進に与えたものだと思う。彼の彫刻に対する意気込みは大したものであったし、生来の非凡な才能も有り余っていたが、また一つには、あの時代がちょうど彼のごときものを要求していたからでもある。日本の近代彫刻は荻原守衛から始まる、とは今日史家の常識であるが、これは確かに間違いない。」
碌山すなわち守衛の人生は短かった。一方の光太郎は彫刻家として詩人として生き、1956年74歳で没した。守衛を応援したのが相馬愛蔵の妻、黒光だった。相馬夫妻は、穂高を出て、東京新宿でパン屋・中村屋を開いていた。
光太郎は、荻原守衛と題する詩を作っている。

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   荻原守衛


   単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあった
   坑夫、文覚、トルソ、胸像。
   人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た。
   新宿中村屋の店の奥に。
   (第二連略)

   ――原始、
   ――還元、
   ――岩石への郷愁、
   ――燃える火の素朴性。


   角筈の原っぱのまんなかの寒いバラック
   ひとりぽっちの彫刻家は或る三月の夜明けに見た、
   六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊ってゐるのを。
   荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。

   粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
   「頭がわるいのでろくなものはできんよ」
   荻原守衛はもう一度いふ、
   「寸分も身動きができんよ、追ひつめられたよ」


   四月の夜ふけに肺がやぶけた。
   新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして、
   荻原守衛は血の塊を一升はいた。
   彫刻家はさうして死んだ――日本の底で。


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山本健吉が光太郎について、次のようなことを書いている。
「彼(光太郎)によれば、詩を作っていなくても、より高貴で強烈な詩人の魂を持った人々が存在するのだ。詩を作ると否とにかかわりなく、『詩人(デヒテル)』は存在する。彼にとっては、ギョオテ(ゲーテ)と等しく、ロダンも詩人だったのである。宮沢賢治と等しく、荻原守衛も詩人だったのである。」
詩人(デヒテル)というドイツ語を使って光太郎は、こんなことを言っていた。
宮沢賢治の全貌がだんだんはっきり分かってきてみると、日本の文学家のなかで、彼ほどドイツ語でいうところの詩人(デヒテル)という風格を多分に持ったものは少ないように思われる」
山本健吉が言うには、「詩精神とは事物の中心に直入する精神であり、事物に対する根本把握の問題である。詩は、単に詩であることを超えたとき、本当の詩となるのだ。」と。そしてまた、
「光太郎が荻原守衛の作品に、ある大きさの感じに、方法論ばかりでは生まれてこない芸術性を認めたとき、彼は守衛の作品にあくまでも彫刻であってしかも彫刻を超えるもの、言わば真の詩そのものを認めたことになるのである。詩人とは、詩を作ることを超えた種族に名づけられるものである。」と。

       侏儒=こびと、一寸法師