秋葉原事件が表しているもの


夜明け





秋葉原大量殺人事件の東京高裁判決は死刑だった。世間では、当然のことだと受け止められていることだろう。裁判報告の記事のなかに、この事件を調べてきた北海道大学大学院准教授・中島岳志の意見が掲載されていた。その記事はぼくに新たな視点を気づかせた。中島は、被告の手記に何度も出てくる「孤立」という言葉に注目していた。被告の孤立とは、どんな孤立だったのだろう。
被告の孤立感は、「本当の人間関係」を求める欲望が満たされないことにあったと思われる。ネットの世界でも孤立した。派遣労働でも疎外され、「誰かのために自分は働いているという、かけがえのない自分」を見つけることができなかった。自分は何のために生きているのか、感じられなかった。「利害関係だけではなく、人との結びつきを、どれだけ社会につくれるか、これが事件の投げかけた問いだ」と中島は言う。「そういう思いを抱えた人は、誰の回りにもいる。私たちは彼らに声をかけ、関係を作ろうとしているだろうか。あれだけ騒がれた事件だが、もう誰も被告を見ていない。彼は死刑を執行されるときも、後悔をしないだろう。社会に希望は無いと思っているからだ」、中島はこう述べ、被告の突きつけている社会の絶望について自分は何をなすべきかと問うていた。
「孤立・孤独」ということを考えるとき、日本で毎年三万人以上の人が自殺し、学校ではいじめが多発し、百万人を超える人が精神疾患を病んでいるということとが関係していることに気づく。
子どもは、家庭と学校の二つの集団が、心安らかに育っていくベースでなければならない。社会人は、家庭と職場という二つの集団が、生き甲斐を涵養する場にならねばならない。さらにここにもう一つ別の集団があって、自分のやりがいを感じられると精神的充実感が満たされる。ところが、家庭でも孤立・孤独、学校でも友はいない、職場では疎外、となると、八方ふさがりである。人間耐えられるか。
カンサンジュンは、「続・悩む力」(集英社新書)で、核家族の家庭を、「社会で最小単位の修羅場として、夏目漱石はとらえた」と書いている。
「家庭というのは、ある時代まで、きびしい外界から身を守る避難所のようなものであり、共同体のなかでささやかながら最も濃密で温かな団欒の場であったはずなのだが、いつしかそうではなくなり、“かすがい”を持たない二つの個体が神経戦的バトルを繰り広げる畳のリンクになってしまった」。
カンはこの著で、漱石マックス・ウェーバーの思想をもとに、世界を読み解こうとしている。「世界に対する絶望感」についてこう書いている。
「かつてパスカルは、『この無限の空間の永遠の沈黙は、私を戦慄させる』という名言を吐きました。それは、この宇宙の中に自分ひとり、ぽつねんと取り残されていることに気づいたときの心もとなさを表しているのですが、その感じです。『実存的な空虚感』に陥り、自分の人生に意味が見いだしえず、世界からその精神的な輪郭が失われた自分が無へと滑り落ちていくような恐怖にさいなまれることになるのです。では、なぜそのような恐怖や不安に陥るのかといえば、自分というものと外の世界とのつながりが断ち切られているからです。」
「経済のシステムは営利追求とともに、どんどん膨張して変形していき、人と人とが相互の便益のために貢献しあい、モノやサービスを公正に交換しあうような関係ではなくなり、持てるものと持たざるものの差が、とてつもなく開いて、あなたの幸福は私の不幸、あなたの不幸は私の幸福といったゼロ・サム・ゲームがおおっぴらに繰り広げられるようになったのです。」
今はマネー経済となり、カジノ資本主義となって、悪魔的な様相を帯びてきた。他者を世界の外に追いやり疎外し、自分で自分を疎外する、「不信の構造」であると。
現代社会・世界はどこに向かっているのか。カンの論を読んでいるうちに、カンは秋葉原についても語るだろうという予感がした。秋葉原事件は、突発的な特異な事件ではない。この世界の情況が生み出した事件ではないかと思ったからだった。予感は的中した。カンはこう述べる。
「(秋葉原事件の被告は)自分はこんなはずではない。どこかにホンモノの自分があって、それさえ引き当てれば自分の真価は発揮されるのだと思いつめていたのではないか。閉ざされた世界の中で、猛烈に自分にこだわりながら同時に猛烈に他者から求められたいと望んでいたのだろう。出口の無い迷宮のなかでもがき苦しんだ果てに、精神的の暴走したのかもしれない」
「ホンモノの自分探し、自己実現のプレッシャーは終わることのない悪夢のようなどうどうめぐりが、私たちに重くのしかかっている」
 そしてカンは思いがけない結論に導いていく。
「ホンモノを探せ、と叫び、私たちをあおっているのは誰なのか。それは資本主義だ。このスキのない魔物のようなシステムは『商品となるもの』を見つけ出して利用する。殊に不安の匂いのするものを利用するのがとてもうまい。ホンモノを探し、自分らしくなりたいという願いが、自分に忠実であろうとする近代的な自我のひとつの『徳性』を示しているとしても、それが時にはファシズム神経症的な病を作り出しかねないことに、もっと注意を払うべきだ。」
 秋葉原事件は、この社会の方向を考えさせる事件であった。

そして今、日中間、日韓間でも、ナショナリズムが暴走している。「愛国」という旗印。暴走する人々は、その「愛する国」をどうとらえているのだろう。国をファシズムに向かわせた大衆の「愛国という歴史」を世界は共有している。暴走する庶民のナショナリズムは、国家のファシズムを太らせていく。この問題も、秋葉原の提示する問題と無関係だとは思えない。