教育実践の質と教師集団

michimasa19372008-12-05




グループや集団で仕事をしているとき、
みんなの仕事の質を上げたい、と強く思って打ち込む人と、
みんなの仕事の質を考えるよりも、出来るだけ合理的に自分の仕事をこなせばいい、
という人と、さまざまである。
教師集団の仕事の質を上げることにみんなが奮闘した学校で、ぼくは三十代を過ごした。
教科指導も、学級集団づくりも、同和教育も、全教師が自分の実践をオープンに発表し意見交換するのがその学校の作風だった。
しかし、その後転勤した学校は、教師それぞれの実践は会議の席でオープンにされることはなく、指導は個人に任されていた。
それでもぼくは自分の実践を学級通信にまとめて教師たちに読んでもらっていた。


学校教育の質は、実践をオープンにし、教師が互いに学びあい、討議しあわなければ高まらないと考える。
工夫し努力している仕事を大いにみんなの前に出してもらう、
こういう実践をした、そうしたらこういう反応が出てきた、生徒はこうなった、それをこう考える、
それぞれの教師がやれたこと、やれなかったこと、それをみんなのなかに出していく。
そこから見つけ出したことで実践を高めていく。
それを自分の信条にしてきた。
しかし、現実の学校では教師の実践はその教師と教室から外に出ることはない。
オープンにして討議するという実践は稀少である。
教師一人一人は自分のやり方、考え方を持っており、他から干渉されたくない、
授業をどう創っていくか、どんな指導をしていくかは、教師個人に任せればよく、
集団で討議するのは、カリキュラムや指導体制、学校行事などに限る。
実践の内容をオープンにすれば評価につながる、それは好まない。
そういう考え方である。


学校には、
同僚の仕事に対して批判的な発言をしたり、批判的評価の匂いのする言葉を発したりすることは避けたほうがいい、
という職場内の処世術がある。
教師の世界で、その指導法はいいねえ、とほめたりするのは歓迎されるが、
それはよくないねえ、という発言ははばかられる。
先輩後輩の関係でつながる教師同士では、先輩から後輩へのアドバイスとしての率直な批判もありうるが、
そういう関係のない場合、たちどころに人間関係が悪くなることを恐れる。

 
特定個人対象でなく職場内の一般的な問題に対しての意見なら、職員会議でも批判的意見は出しやすい。
それでも「さわらぬ神にたたりなし」で、言うべきことも言わない人が多いから、
学校内で討論が質的に深まることは極めて珍しいことである。
「なあなあ的体質」、「なあなあ主義」という言葉がある。
なれあいで、ことなかれですませる意味で使われる。
波風立てずに、関係を順調にするためには、それでいくといい、というわけである。
ところが、自分の所属するグループと対立・対抗するグループに所属する人に対しては遠慮なく批判し、
すぐれた仕事にもあまりほめることをしない場合がある。
身内には甘く、そうでない人には辛くなるのも人間関係のパターンである。
この体質が学校教育の深化を妨げてきた。
教師と教師が断絶した職場の関係性のなかで、認められることなく、孤立し行き詰まり、苦悩し、やる気を失っていく教師が出てくる。


こういう集団内の人間関係は、学校の教職員だけでなく、他の職業にもいえることである。
病院の医師にしても、自分の診療行為を明らかにし、同僚の治療に対して率直に意見を言うことは、たぶん避けていることと思う。
役所の中での関係もそういうものがあるだろう。


最近、姜尚中(カン・サンジュン)さんが「悩む力」(集英社新書)を出版した。
よく読まれている。
そのなかで、「私はなぜ働いているのか」について考察した。


カンさんは、ワーキングプアに関するNHKのテレビを見た。
三十代半ばのホームレスの男性が、公園に寝泊りし、
ゴミ箱から雑誌を拾って売り、それで命をつないでいる。
彼は、元ホームレスだった人から市役所に紹介してもらって、公園や道路清掃の仕事をするようになり、
やっと食堂で食事できるようになった。
食べているときのうれしそうな顔、人間らしさを取りもどした喜びだった。
ある日、草取りをしていると、声をかけられた。
そのときのことを、彼は涙を流して語る。
涙を流す、それは人間をとりもどしたからなんだと。


ぼくもこのドキュメンタリーを観ている。
彼の涙、彼の心が痛いほど伝わってきた。
カンさんは、そのことについてこう書いている。


「何という言葉をかけられたのか分かりませんが、たぶん、『ご苦労さま』に類するような言葉だったのではないでしょうか。
『以前は、生まれてこなかったらよかったといってましたが』という取材者の問いに、
『今もそう思う』と答えた彼は、
ちゃんと社会復帰すれば、生まれてきてよかったとなるんじゃないか、といって言葉をつまらせます。
 そして、前だったら泣かなかった、普通の人間としての感情がもどったのかもしれない、と言うのです。
 これはとても象徴的で、『人が働く』という行為のいちばん底にあるものが何なのかを教えてくれる気がします。
 それは、『社会の中で、自分の存在を認められる』ということです。
 一生懸命働いていたからこそ、ねぎらいの声をかけられた。人がいちばんつらいのは、『自分は見捨てられている』『誰からも顧みられていない』という思いではないでしょうか。
誰からも顧みられなければ、社会の中に存在していないのと同じことになってしまうのです。」


そうして、カンさんは、互いに認め合うこと、そのために「アテンション(ねぎらいのまなざしを向けること)」 が重要性だと述べる。
「人はなぜ働かなければならないか」、
その答えは、「他者からのアテンション」と「他者へのアテンション」である。
それを抜きにして、働くことの意味はありえない。
仕事のやり甲斐とか自分の夢の実現は、次の段階である。
そうカンさんは言う。


断絶社会では、他者とのかかわりを断ち、個人の世界にとじこもり、自己を守ろうとする。
それによってますます断絶が進む。
悪循環である。