昆虫少年という文化


八月に三郷で行われた福島の子どもたち保養ステイ・キャンプのなかで、子どもがヤンマをつかまえてきた。それは、黒澤川の流域ではヤンマが生き残っているという発見であったが、同時に子どもたちのなかにはやっぱり昆虫の好きな元気な子がいるという発見でもあった。
子どもの時代、ぼくは「ファーブル昆虫記」や「シートン動物記」に夢中になった。今の子どもはどうだろうか。かつて中学国語の教材に、ヘルマンヘッセの「少年の日の思い出」が載っていた。蝶や蛾に夢中になっていた子どものとき、熱中のあまりに友だちの貴重なフウサンガの標本を盗んで壊してしまう話だった。この話は夕暮れの景色とともに心に残った。
「大人になった虫とり少年」(宮沢輝夫 朝日出版社)という本が最近出版されている。
少年時代、昆虫少年だった人たちがたくさん登場する。養老孟司奥本大三郎中村哲福岡伸一北杜夫茂木健一郎、数えて12人。日本には、「昆虫少年という文化」があるという。すばらしいことではないか。
日本語で詩を書くアーサー・ビナードも、アメリカの昆虫少年だった。ビナードがこう語っている。
世界中で昆虫が一番すごい力をひめている。本当に偉いのはもっとも多様性に富んでいる昆虫だ。昆虫は、地球のことをいろいろ教えてくれる。昆虫少年や昆虫少女を多く育てることは、持続可能な農業や産業につながっていく可能性がある。より高い次元での昆虫教育が大事だ。チェルノブイリ原発事故で汚染されたところは、ミツバチがいっさい飛ばなくなった。棲息ができなくなった。その結果、果物もならなくなった。ミツバチの減少は、日本では農薬が原因だと思う。そこへ福島原発事故、どんな影響が出るかまだ分からない。昆虫が教えてくれる情報をキャッチしていかないと、人間の生活は成り立たなくなる。これから昆虫少年の存在意義が大きく変わってくる。昆虫を観察することでこの列島でどう生きていけるか、その知恵が見えてくる。
ビナードがそう語る。
 フランス文学者の奥本大三郎は、「ファーブルの昆虫記」全十巻を2009年に完訳した。もと昆虫少年が大人になってなしとげた偉業である。2008年から奥本大三郎は、日本に昔からある在来の広葉樹を学校や大学に植える運動を推し進めている。
「街路樹では、プラタナスユーカリ、公園の木立でもヒマラヤスギなど外来種の植物ばかり。日本にもともといる昆虫が寄り付かないので虫害にあいにくく、管理するのが楽だから、役所は植木屋さんに丸投げしているのです。たとえば、小学校にエノキを植えれば都心でもゴマダラチョウは育つでしょうし、オオムラサキだって飛んでくる。そうした小さな森を各地に作るんです。なにもチョウが飛んでくるからだけで、こんなことを提言しているわけではありません。在来の樹木を育てないことは、文化の断絶につながるんです。日本画、俳句、和歌、日本の伝統的な芸術は、花鳥風月を基本としているんですから。」
 エノキは高さ10メートルから20メートル、直径は1メートルから3メートルになる。江戸時代は、街道の一里塚に植えた。果実は甘く、若葉は飯とともに炊いて食用にもした。樹皮は煎じて漢方薬になった。
 この夏の朝、幼児二人をつれてきた若いお母さんと話をしたことがあった。村のゴミ集積の当番でのことだった。子どもは虫かごを持っていて、そのなかにクワガタがはいっていた。
「へえ、どこにいましたか」
お母さんは、南の田んぼの中の小さな木立を指差した。
「へえ、あんなとこに虫がいましたか」
もう、虫のいるところはわずかになり、珍しいことだと言うと、お母さんは、
「私は豊科で育ったんですけれど、子どものころは犀川のほとりのほうへよく虫取りに行きましたよ。柳の木がたくさんあって、虫がよくとれました」
 若いお母さんは、もと昆虫少女だった。そしてその子は昆虫少年になりつつある。昆虫少年の文化が滅びることがないように、安曇野のいたるところに小さな森を取り戻したい。虫たちのふるさとは、昆虫少年のふるさとになる。昆虫少年のふるさとは、人間の栄える里になる。