昆虫少年


 ブルーベリー畑のある家の前を過ぎて、小さな雑木林の方へ歩いて行くと、後から合図するように物音がした。ふりかえると、ボクがにっこり笑っていた。
 「今日はプールがあるの?」
 「うん、終業式だよ。その前にプールだよ」
 左肩にかけているカバンらしきもの、水泳があるとピンと来た。
 ボクの顔はよく陽に焼け、鼻の頭の皮がむけている。ボクは西小学校5年生だったかな。ボクの名はシュウ。
 「明日から夏休みだね。カブトムシ取りに行ったりする?」
 「するよ。あっちの方へも、あっちの方へも」
 アルプス公園から烏川渓谷緑地の方を指さし、つづいて穂高の北の方を指した。
 「いま50匹ぐらい、飼ってるよ」
 「えーっ、そんなに?」
 「クワガタはもっと多いよ」
 「えさは、ウリかナスをやるの?」
 どこからか二人の男の子が現れて追いついてきた。3年生ぐらいかな。一人の子が会話を聞いていたらしく、
 「ゼリーだよ」
と会話に入ってきた。
 昆虫の餌にはそれ用のゼリーがあり、綿半スーパーで売っている。それを買って来ると言う。
「外国のカブト虫も売ってるよ」
 へーっ、こんな地方でもそうなのか。
 シュウは、諏訪神社の上の材木置き場から木のチップをもらってきて、虫たちの寝床にしていると言った。かなり大がかりな飼育だ。積み上げてあるチップの下のほうにある古いのをもらってくる。そこで産卵もし幼虫になる。その幼虫を育てるから、こんなに大量の飼育になるのだ。
 シュウはランの頭をなでながら歩く。3人の小学生と、老爺の4人は学校近くの交差点まで、昆虫談義をしながら歩いた。虫たちが交尾しないので他から別のを入れたこと、クワガタが戦い体を分断してしまったこと、虫たちを飼育して経験した話を聞いていて、「昆虫少年、ここに健在なり」と認識を新たにした。
 ためしに聞いてみた。
 「昆虫少年だった手塚治虫を知ってるかい」
 「知らない」
 「鉄腕アトムをかいた漫画家だよ」
 三人とも「知らない」。
 「そうかあ、手塚治虫を知らないのかあ」
 これには少し驚いた。けれど今はそういう子どもの世界になっているんだ。
 「学校にクヌギやナラの樹があるかい」
 「あるよ」
 クヌギの樹液に虫たちはやってくる。
 「スズメバチも来るよ」
 「刺されたら危ないよ」
 「何度か刺されたよ」
 クロスズメバチに刺されたらしい。家にはその巣が土の中にあるという。
 「学校に池は?」
 「あるよ。小さな池があるよ」
 「水の中にヤゴいる?」
 「いるよ」
 ふーん、西小学校にはビオトープもあるんだ。その池でトンボがかえっているんだ。
 学校のすぐ近く、交差点で彼らとのウォーキングは終わった。
 「シュウ君、今度いつか虫を見に行くよ。見せてね」
 「うん、いいよ。バイバイ」

 朝のウォーキングから家に帰り、新聞を開いたら、「鶴見俊輔さん死去」の記事が目に飛び込んできた。ついに逝かれたか。93歳。惜しい、あまりに惜しい。
 上野千鶴子の追悼文が胸に迫る。
 「どんな主義主張にも拠らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考え抜いた。何事かが起きるたびに、鶴見さんならこんなとき、どんなふうにふるまうだろうと考えずにはいられない人だった。哲学からマンガまで、平易なことばで論じた。‥‥女、子どもの味方だった。‥‥違憲安保法制のゆくえを、死の床でどんな思いで見ておられただろうか。  鶴見さんはもういない。」