自主教材と石牟礼道子 <学校という世界の自由度>


 授業に使う教科書以外に、自主教材というものがある。子どもたちがよりいっそう考え、理解を深め、新たな認識を得るためには、教科書という教材だけを教えるのではなく、オリジナルな教材があったほうがいい。都会の子どもにはどんな教材がいいのか、農村・漁村の子どもには何が適切か、子どもたちが生活している地域の状況、風土、環境、歴史、家庭、さまざまな実態の上に立って授業を構想しなければならない。さらに子どもひとりひとりに合った教材という視点もいる。国語の教科書の場合、たとえば文学作品では、どの教科書会社の教科書にも採用される共通の作品がある一方、その教科書の編集者が選び出したオリジナルな作品がある。生徒の日本語能力を高めるには、教科書教材を研究しながらも、もっとほかにふさわしい作品はないかと、探す作業が必要なのだ。
被差別部落の中学校で子どもたちを教えていたとき、この子らにどんな自主教材が必要かと模索した。そして選んだもののなかに、石牟礼道子の「苦海浄土」があった。部落差別を受けてきた地区の人々にとっては、差別のない社会をつくるために、子どもたちにしっかり学力をつけてほしいという願いがある。「苦海浄土」を読ませてみよう、子どもたちの認識を広げるために。公害の被害を受け、おまけに水俣病のゆえに差別を受けるという二重の苦しみがあった水俣の人々の生活実態を読み味わうことは、自らを客観視することにもなる。石牟礼道子の文章もよかった。教材に選んだところは、水俣の人々の優しさ、悲しみ、生き方を、読むものの心に静かにしみこませるものだった。
最近、石牟礼道子の「民話としての学問」という文章を読んだ。
石牟礼道子の生きた熊本の地方には、「山学校組」という言い方があった。その地方では昔から登校拒否生徒のことを「山学校にゆく」とか、「トウダイにゆく」とか言っていた。学校へ行かずに山へ遊びにいくことを「山学校へゆく」、海へ遊びにゆくのは東大と燈台をかけて「トウダイにゆく」と言ったのだった。石牟礼道子は「登校拒否生徒」と書いていたが、いわゆるサボリである。石牟礼は、そのころのワンパクが60を過ぎて寄り集まると話題になる「山学校」のことを書き、その文章は次のように続いていく。

家庭訪問に先生が見える。
「もう十日ばっかり休んどられますが、どげんしたかと思いまして」
親はたいがいこんなふうに言う。
「あれ、また! ンまあ、弁当はもたせてやりますとに。あのバカがまた、山学校ですばい、きっと」
そして吐息をついてみせる。
「やっぱなあ、親に似とりますとでっしょ。わたしどもも、学校よりか、山の、海のちゅう方面が、好きでしたもんなあ」
それからハッと気がついて、「すみません、先生方も忙しゅうあんなさるとに、明日からきっと学校の方に行かせます」
いばらや、とげで、服は破き、手足はひっかき傷だらけになって、子どもが帰ってくる。収穫物のモチの木の皮だの、ニッケイの根だのでポケットがふくらんでいる。ニッケイというのはシナモンの原木をいう。かじれば独特の香りと甘みがする。鼻の頭がツバキの蜜だらけなのは、メジロかごをどこかに隠しているにちがいない。
「このバカが。メジロとりにゆくくらいなら、なして薪物の一本なりと拾うてこんか。今日は先生の来らしたぞ、気の毒かった。落第でもしてみろ! 先生の顔のつぶるっとぞ。困らするな、先生ば」

そこから石牟礼は、60過ぎたその当時のワンパクが集まって同窓会のようににぎやかに歓談する会話を書いている。

「顔出しておかんば、先生の顔つぶすちおもうて、たまにはゆきよったぞな、学校にも」
「そうじゃ、よか先生じゃった。たまに顔出せば、ほう、よう来たねえち、喜びよらした」
「昔の学校はよかったねえ。それで先生が、山学校はよっぽどよかばいねえ、こんだの日曜に先生も連れていってくれんかいち」
「うん、それでみんなで案内して、ツバキの花もって、メジロの呼び方はこう、トリモチの作り方はこう、ウサギ道はこげんしとるち言えば、ほう、ちゅうて、おまえとこうやって、山学校しとるほうがおもしろかねえち」
「うん、じゃがなあ、それじゃ先生の役目が無うなるもんなあ。第一、飯も食いあげぞち、先生のほうがクビになるとぞち、言いなはった。こたえたなあ、あれは」
「こりゃ学校にも、たまには行かんことには、先生の飯の食い上げち。成績はどうでもよか、来てくれればち。これにゃ困って、悪かぞいち、思いよったなあ」
「思いよったにしては、いっときしかゆかんじゃったろうが」
「お互いにな。うーん、なつかしかなあ、あの先生は。同窓会やろうか、呼んで」

そして石牟礼は述懐する。
彼らは、長ずるにしたがって、地域の顔をしめる存在となり、山林や農作業や漁業にあたっては、ひとかどの人物ばかりである。だが、学歴を獲得して、都市型人種となった万年優等生たちは、おおむねその故郷とは縁が切れる。
このことは、日本近代を考えるうえで、ひじょうに示唆的な問題を含んでいる。いわゆる落ちこぼれっ子たちは、昔からごまんといたわけだけれども、彼らはその後、世間という実人生にぶち込まれる中で、それぞれの哲学をつかみとり、自ら生きる方向と、その指標とを見定めてゆくかのように思われる。こういう人たちが、論というのを好まないのは、知識というものの浮薄さを本能的にかぎわけているのである。学歴競争社会への芽生えは、かなり早く、戦前からこのような層に直感されていたのであろう。それへの反語として、山学校組とかトウダイ組とかの言い方が生まれたのだろうか。だからといって、庶民が学問をバカにしているかというと決してそうではない。

その後に、徳富蘇峰のエピソードがつづられる。
水俣川の土手に、トタン板やボロ布を拾い集め小屋を作った乞食がいた。乞食は三年ほどそこにいて、土手の日永に腹ばいになって何か「字ィのついた紙切れ」を読んでいた。「あれは六法全書かもしれん」、「ありゃあ仙人ばいきっと」、一種喜びの気持ちをこめて語る村人を見て、民話としての学問がひとつ生まれたと石牟礼は思ったのだった。