市議会と市民の意見交換会には失望した

 <ターザンごっこをする女の子たち(福島の子の保養ステイ。どあい子ども冒険クラブのキャンプ場で)>



議会改革の一環で開催された「市議会と市民の意見交換会」に参加した。意見交換会といいながら市民の意見を出せる時間は30分足らず、6人が発言すれば一人5分だ。市議会側は代表の委員長が一人で答弁する。適当に、防衛的、弁明的に応える。ぼくは、時間足らずになるだろうと予測して意見発表の内容を印刷して持っていったが、会場内では配らないようにと委員長と議長から言われ、会場外で配った。すでに会場内に入っている市民や議員たちには配ることさえ許されなかった。自分の意見を文書にしたものも配れないとしたら、表現そのものも認められないことになる。結局ぼくは時間の関係上配慮して、印刷してきたことの一部を発言したにすぎない。
議員たちは、このような意見交換会で、開かれた議会にむけての、議会改革一歩とするのだろうか。
 私の原稿内容は次のとおり。




【市議会を傍聴してきて考えたこと】 
    一市民の観た安曇野市議会の姿

一、討論になっているのだろうか
 議員のみなさんは一生懸命に意見を出されているのだが、賛成反対の意見は並列的に出されて、そこから論点の違いを掘り下げ、より高度の政策に練り上げていくという討論がないまま、多数決で決められていくように思える。
二、市長・行政を正しくチェックできているのだろうか。
 与党的な立ち位置の議員が、市長・執行部の方針をまるごと容認し、お任せしているのではないかと思える。市の900億の負債を今後どうして返済するのか、この膨大な負債が将来の市政にどんな影響を与えるかという重大問題の場合も、それを追究する議員はきわめて少数であった。チェック機能が働かない二元代表制ならば直接民主主義が必要となるだろう。
三、市民の声を聴こうとしているのだろうか。
 市長・執行部と議会への不信感が市民のなかで強くなっている。市民の生活と市民の意見を熟知して政策を練ることが議員の責務であるが、市民の意見を聞くのはパフォーマンス的だという意見が市民の中で強くなっている。
四、高額の報酬を受けながら、議員として活動しているのかあやしい。
 市民ネットワークが議会議事録をこの三年間調べた結果では、質疑、討論をろくにしていない議員がいることが分かった。議員として失格である。
五、議会・議員の体質。
 地方に残る古い体質では、地縁・血縁が影響力をもっている。その風土では、市民運動が育たず、異論を排除し、同調性が強く、迎合、従属などを生む。民主主義が本物になっていく鍵は、市民が政治に関心を持ち、開かれた政治にしていくことであると考える。議会の中の会派や議員のなかの関係性に潜む問題点を議員はどのように認識しておられるのだろうか。


<本当に必要な政策とは何か 二つの事例>

一、将来を担う子どもの環境が壊れてきている

Ⅰ 子どもに必要な三つの集団の、一つが消滅している。

     ①学校・学級 ――――――――○――――――――― ②家族・親族
                ③居住区の子ども集団
                異年齢の遊び仲間     消滅
                自然のなかで、外遊び
                    

Ⅱ 遊びが変質している。
 人類の長い歴史を通じて、友だちとの自然の中の遊びは、無限の学び、心身の鍛錬、感性・感覚の練磨をもたらし、人と人との関係を通じて社会性も養った。危険を予知し避ける能力も培われた。遊びは創造であり、冒険・探検は能力の開発であった。しかしその環境は大人の都合、論理で消滅した。川遊び、魚釣りのできる小川がなくなり、虫捕りのできる雑木林・野原がなくなった。子どもは自然のなかで遊ばず、室内にこもって電子ゲームなどに興じる遊びが主流となった。子どもの群れ遊びは学校の場だけになっている。

Ⅲ 居住区に群れて遊ぶ子ども集団の消滅が、学校の「いじめ」の多発や、被害の深刻化に関係している。 
 居住区に仲良しの友だちがいて、遊び仲間のグループがあった時代は、学校でのいじめの精神的苦痛を乗り越えるモメントを得ることができた。それがなくなった今、学校でのいじめは直接的に、孤独な子どもを打ちのめす。現在の児童館、子ども会では、地区の子どもグループの補完的役割を果たし得ない。

■ 子どもたちの遊び環境を取りもどさねばならない。耕作放棄地などを活用して、川遊び、魚釣りのできる小川や、虫捕りのできる雑木林を取りもどす政策を考えてほしい。

二、安曇野の景観美は劣化している

Ⅰ 景観美の悪化
 景観に調和がなくなり、安曇野の魅力は減少の一途。広域農道の南端から北端まで、おおざっぱに道路ぎわの看板を数えると300あった。のぼりの林立もひどく醜悪ですらある。やっと行政が動き出すようだが、美は生み出せるか。不調和な建造物も景観美をつぶしている。安曇野の景観美には建造物を取り巻く高い木立ちが大きく貢献している。その大きな樹木が減少している。
Ⅱ 観光客は何に魅力を感じるか
 歩いてこそ、触れてこそ、旅は楽しめる。しかし安曇野を散策する観光客は少ない。散策するための緑陰歩道がない夏は、暑さで歩くこともできない。イギリスでは網の目のようにパブリックフットパスがつくられている。それは「人間は自由に歩いて楽しむ権利を持っている」という思想にもとづいているが、安曇野ではその思想が欠如しているために、JRの駅からアルプス公園に歩いて行くにも、ワサビ園に行くにも、車道ばかりで緑陰の歩道がどこにもない。「おひさま」効果は一時的なもの、10億の経済効果があるという幻想で、豊科ICを安曇野ICに変えるために、二億一千万円が組まれた。はたしてそれで観光客をひきつけ得るだろうか。この政策は正しい政策だったと言えるだろうか。

■ 観光客を呼ぶなら、何度でも来たくなる魅力ある安曇野にしていくことではないか。この情報化社会で、インターチェンジの名称を変えれば観光客が増えるなんてことは考えられない。木を植え、歩道を整備し、景観を調和のとれたものにしていく政策を行い、文化の盛んな人情の厚い地域にしていくことこそが後々に経済効果に結びつく。そういう点から政策を見直すべきであると考える。

 意見交換会穂高会場で、私は充分語れませんでした。私の言いたかったことは、以上のようなことです。
 定数問題は数だけを論議しても無意味です。行政、議会、政策を論議していくなかから、決めていくべきだと思います。「市民と市議会の意見交換会」だからこそ、このように意見を提出します。