人間魚雷を生み出した社会


その時代の歴史を知るためには、その時代に書かれた文学作品を読むことが欠かせない。昭和23年に、芹澤光次良は「死者との対話」という小説を書いている。人はその時代をどのように考え、どのように観ていたか、いかに生きようとしていたか。
昭和23年(1948)は、敗戦後3年目である。まだ戦争の傷跡が生々しく残っていた。アメリ進駐軍が日本を支配していた。「死者との対話」の死者は、小説の主人公である「僕」の教え子、和田稔である。学生であった和田は召集を受け、海軍の特攻兵器「人間魚雷回天」に搭乗して出撃し、戦死した。
和田は戦争に懐疑的だった。死の覚悟もできていなかった。応召するとき、苦悶する和田は「僕」の家に来て言った。
「死を前に純粋な心で、これほど切実に求めているのに、何も応えてくれない哲学というものは、人生にとってどんな価値があるのでしょうか。日本の哲学者はほんとうに人生の不幸に悩んだことがないので、人間の苦悶から哲学しなかったからでしょうか。」
東京は大空襲を受け、焼け出された「僕」は信州の山の家に疎開し、食糧難から野草まで食べて生き延びていた。
「僕たちのなめた不幸が、戦争から生じる不幸であるよりも、僕たち日本人の人間としての低さから生じた不幸であった。みんなで避けようとすれば避けられる不幸であった。日本にも多くの善意を持つ偉い学者や芸術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をしてきたので、言葉を持たない大衆は置き去りにされ、日本人は民度を高めることもできなかったが、これは知識人の裏切りであった。」
「僕」は出撃を前に会いに来た和田にそう言った。
和田は戦死した。日本は無条件降伏をし、戦争犯罪人を裁く極東裁判が開かれた 。「僕」は死者の和田に極東裁判を見せたいと思い、次のようなことを言う。
「日本では、陸軍は陸軍の言葉を、海軍は海軍の言葉を、外務省は外務省の言葉を、陛下の側近者は側近者の言葉というふうに、めいめいちがった言葉を使っていて、お互いに意思が疎通しなかった。誰も戦争はしたくはないが、その意思がお互いに通じ合う言葉がないから、腹を探り合っているうちに無謀な戦争に突入して、戦争になってみんなあわてたが、責任がどこにあるのかわからない様子だ。おかしなことだ。国民は戦争に飽いていたから、日本人全体が同じ言葉を使っていたならば、戦争にならなかったかもしれない。」
作者は、この小説で「言葉を話せない障碍者」を表す今では人権に抵触する言葉を使って、「言葉を発せず、言葉を持たない」大衆を比喩的に語っている。要するに、これからの日本は、国民みんなが互いに横の関係になって、意思が通じ合う言葉をどの方面にむかっても話すということにならなければ、民主主義、民主主義と言っていても、戦争中にいくつも掲げられた標語と同じことになる。」
そして、小説最後でこう語る。

「人間魚雷とは、悪魔の仕業のように恐ろしいことだ。それを僕たち『言葉を持たないものたち』はつくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。
君の手記は、その悲劇を示して僕たちに警告している。僕たちがまた『言葉を持たない発しないもの』にそっぽをむけていたならば、僕たちは崇高な精神に生きながらまた「言葉を持たない発しないもの」のつくる違った人間魚雷に乗せられて、死におくられることが必ずあることを。」