盆踊り


 お盆がくると、遠くから河内音頭が聞えてきた。昼のほてりが少しさめた夜風に乗って河内野を流れてくるスピーカーの音は、波のうねりのような語り口調の河内節である。大阪の河内地方や大和平野の盆踊りには、河内音頭江州音頭が欠かせない。盆踊り会場の中央には高く組まれたやぐらがある。その上に立った音頭とりが、太鼓の拍子に合わせて調子よく歌うと、やぐらを取り巻く村の大人も子どもも、ある人は浴衣姿、ある人はランニング姿にうちわを持ち、お盆の宵の解放感に酔って、手足をのびのびと伸ばしながら踊った。音頭の合間に和太鼓がドドンコと打ち鳴らされ、木の丸胴がかッカとたたかれる。それにあわせて「よいとこさっさの よいやさっさー」「いやこらせー、どっこいしょ」と踊り子が声を張り上げた。盆踊りは、先祖の霊を迎え慰め送るお盆の、踊ることによって自己を解き放つ共同体の交流祭事でもあった。
 ぼくが小学生のとき、兄と近所の子らが一緒になって、村のはずれの道ばたで、竹やぶから竹を切って来てやぐらを作り、子どもだけの盆踊りをしようとしたことがあった。近所の遊び仲間は準備に熱中し、やぐらが立ち上がりかけたとき、健さんがやってきて、それ以上進めることを禁止した。健さんは、我が家の隣に昔から存在する村の墓地を守り葬送を行なう家の長男だった。戦争が終わって2年ほどたったとき、健さんは戦地から復員してきた。戦場を生きのびて帰還してきた健さんは、墓守一家の兄弟とはまったく異なる風格を身につけていた。健さんは、こんな道路の真ん中に、やぐらを立てたら村に人の迷惑になると言った。子どもの群れの中には、健さんの妹もいた。彼女は学校へは行かなかった。健さんの言うことは、みんな素直に聞いた。子ども盆踊りはできなかったけれど、それほどみんなは盆踊りが好きだった。
 戦時中途絶えていた河内の盆踊りは、戦後隆盛を極め、1970年台ごろから若者たちがマンボ調の踊りに変革してから、踊りは画期的なはなやかさと力強さをもつものとなった。今その盆踊りはどうなっているかよく知らない。今も民衆の心を震わせるお盆のイベントになっていることだろうか。
 安曇野に来て、7度目のお盆を迎えた。信州でも盆踊り行事が行なわれている。地元のは、納涼祭と名づけられ、そのなかに盆踊りの時間が少し作られて、まるごとの盆踊りではなかった。夕暮れ、我が家の北、穂高地区からスピーカーの音が聞こえだす。穂高音頭とでも言える軽快なその曲は、「鐘の鳴る丘」「早春賦」など穂高に縁のある歌をアレンジして作られたもので、たぶんそれに合わせて踊っているのだろうと、毎年田んぼの上を流れてくる曲を聴きながら想像するだけで、踊りを見たことはなかった。
 14日、ぼくの住んでいる地区の納涼祭に行ってみた。小学生、中学生、大人、それぞれの出店があり、5、60人の人がいた。7時ごろから盆踊りが始まり、中学生の店でたこ焼きを買って、ぼくはベンチで食べながら見ていた。ここにはやぐらはなかった。音頭とりもいない。録音された曲が流れ出す。「炭坑節」「木曽節」「佐渡おけさ」など、各地の民謡だ。寂れていた盆踊りの輪ができるようにしようと、運営委員会が今年は力を入れ、あらかじめ練習会もしたこともあって、踊ろうと思っていた人たちの輪がすぐにできた。曲に合わせて踊り出した人を数えてみると25人だった。
 この日、他地区でも納涼祭が行なわれていた。他地区はどんな様子だろうかと、自転車で回ってみた。山手のほうへ息を切らせ、スピーカーの声を頼りに上っていくと、男の声は「ハッケヨイ ノコッタ ノコッタ」と聞える。子ども相撲が行なわれているらしい。これは見てみたいと自転車を急がせたが、スピーカーの声は、「優勝戦です、○○君と○○君」と叫んでいる。祭りの会場に着いたら、相撲は終わっていた。会場の公園にはテントが9張りも張られ、武士や僧侶、旅人姿に仮装した人が見えた。地元の新鮮野菜や果物も売られ、焼きソバ串焼きなどの店が出ている。相撲の後は子ども対象のゲーム、ここも盆踊りは行事の一部のようで、いつ始まるか分からない。もう一地区見に行った。会場に集う人たちは多かったが、盆踊りは2、30人の参加程度だったようで、もう一度この日の最後に踊るが、今から子どもの花火大会をするということだった。
 安曇野を歌った「あずみ節」は、どこでも踊られていなかった。地元の人に聞いたら、踊りが難しいとか、あれは松川村の踊りだとか、以前は踊られたことがあったとか様々で、盆踊りからも人の暮らしからも遠く去ってしまっている。むかし学生山岳部の合宿でよく歌った懐かしい「あずみ節」を安曇野全域の盆踊りにたぐりよせたいという思いがまた湧いてきた。
 納涼祭自体、参加者が少ない。どうすればいいか、検討する場を持つ必要がある。