日本の民舞をもっと子どもたちに




 「自分と『みかぐら』の出会いは自分としては決していい出会いとは言えないと思っている。
 何故か。それはここ少年院で会ったから。もっとちがう所で出会いたかった。本当なら、たてまえで、いい印象だけを書けばいいものを、でもこの『みかぐら』だけは、ほんねで思ったことをかきたいので、書きます。
 なんで少年院で、こんな『みかぐら』やらかきゃならないの。やりたくないの。見るにはいいけど。
 今日、最後の舞を踊った時の気持ちの中は、もう何もかも、カラッポ、空気のようなものに感じた。
 自分は少年院での思い出なんかほしくない。こんな所、いい印象なんてほしくはない。できることなら、記憶の一つ一つもなくしてしまいたい。
 少年院での思い出、そんなの、すぐに忘れてしまえると思う。
 こんなにもきらっている、ここでの日々。しかし『みかぐら』だけは、情や心が、舞うと無になれたから、たぶんそうだと思う。
 もっと、『みかぐら』と、ちがう場面で会いたかった。でも思うのだが、ちがう場面であったら、思いに残ることはないだろう。たしかにきれいな目で美しくもっと見えたかもしれないがな。
 『みかぐら』だけは、自分の記憶から消す自信がない。他のすべてのものは、消してやるが、情も心もからめずに記憶の中にのこしておく。  J子」
            <「日本の子どもに日本の踊りを」(中森孜郎 大修館書店)から>


女子少年院で、『みかぐら』という民舞を習った女の子の感想文である。指導したのは宮城教育大学の中森孜郎氏と学生。『みかぐら』という民舞は、難しい。少年院に収容された14歳から20歳までの少女たちが、その難しく、複雑で、体力の要る踊りに取り組み、踊り舞うことで、彼女たちの心は解放され、変化していった。「覚せい剤、シンナー、不純異性交遊」などの「非行」をやってきた子らである。


本の学校では、日本の伝統の民舞を教えない。教えることもできない。
あまりにも民舞を軽視し、その価値をおとしめすぎた。
日本の各地域に伝わり受け継がれてきた、生活や労働の中から生まれた民謡や民舞は、明治以降の教育行政と学校現場の実践から切り捨てられたのだった。
日本の民族舞踊を学校現場に取りもどす実践と運動の芽生えは、1968年の「第一回民族舞踊に学ぶ会」に始まる。
「早朝から夜遅くまで、よく体がもつと思われるほど、寸刻を惜しんで学習が続けられ」と中森が驚嘆した実技講習では、「春駒」「かんちょろりん」「秩父音頭」「さんさ踊り」「新地節」「そうらん節」「田植え歌」「かべぬり甚句」「八丈太鼓」が練習され伝えられていった。
こうして始まった民舞の民間教育実践は、各地の学校に広がっていったが、すべての子どもたちが民舞を踊り、和太鼓を打ち、民謡を歌うという展開には至らず、現代まだまだ道遠しである。


ぼくが大阪に住んでいたとき、盆踊りの中心は「河内音頭」であった。付随して「江州音頭」が歌われた。
お盆のころになると、その地区その地区で組まれたやぐらから「河内音頭」が風に乗って聞こえてくる。夏の宵のそれは、心をふるわせる声ぶりだった。
その踊り方が変化していったのは、青年たちの参加による。
若者たちが、踊りを現代風に変えたのだと聞いた。詳しいことは分からない。
1970年ごろだった。
見に行った盆踊りの輪が、熱気に溢れている。中学生の男子が踏み出す足の勢いのよさ、「マンボ調」だと言う。
このかっこよい踊りが、若者たちの心をとらえ、輪に加え、その中心にしていったようであった。


安曇野には、「安曇節」がある。木曽には「木曽節」がある。
木曽の盆踊りを観たことがあるが、なんとものんびりした、静かな踊りだった。
踊り子は山々の夜の精のようであった。やはり木曽だなあと、思った。
映画の「大地の子」のなかに、残留孤児の故郷の木曽節が流れるシーンがあったが印象的だった。
そして「安曇節」だが、学生時代に北アルプスに登り、里の村で泊まっていたころに覚えた「安曇節」は、えんえんと続く、山と安曇地方を讃えるいい歌だった。
ところが、安曇野に引っ越してから安曇野市の地区の盆踊りで「安曇節」が踊られているのを見たことがない。どうして、と訊くと、あれは、松川村の踊りだという答が返ってくる。
発祥が松川村であっても、「安曇節」は北安曇郡南安曇郡、その周辺も含めて、この連なる山やまの麓で生きる人びとみんなのものではないか。
里をつないで、人々みんなのなかで生きつづけるべきものだ。
穂高の「わさび祭り」で、踊られたのは、「よさこいそうらん」ばかり。
全国で「よさこいそうらん」が踊られる。
いったい郷土のおどりはどうなっているのだろう。


学校に、民舞民謡を取りもどすことだと思う。
郷土を知り、学び、愛する子どもたちの歌と踊りを、取りもどさねばならないと思う。