ロンドンオリンピックのサッカースタジアムから連想したこと


 ロンドンオリンピックのサッカー競技場の報道記事が目に留まった。
 サッカーの六つのスタジアムに共通するのは、見る側の心地よさだとある。手の届きそうなピッチの近さ、芝生の匂いがする、ボールを蹴る音が聞える、即座にプレーに反応する観客と、それに呼応する選手、観客も試合をつくりだす一人という一体感が生まれている。ピッチと観客席の間には金網も高いフェンスも段差もない。
 このような施設になった裏側には英国スポーツ史上最悪の事故があった。1989年、立見席に収容人数を超えるサポーターがおしよせ、フェンスの中で逃げ場なく、96人が圧死した。それがきっかけで立見席をなくし、非常時には観客をピッチに誘導できるようにフェンスを取り払った。この改革は事故を調査した判事の提唱によって政府が動いたからできた。(朝日)
 写真で見ると、なるほど観客席の最前列はフィールドにつながる同じ高さになっている。選手から見ると、芝生の向こうに観客が座っている。もちろん席は階段状に前列から後ろへ一段ずつ高くなっているが、選手がいい雰囲気だと言うのも、選手と観客が同じ平面にいるという感覚が出てくるからだろう。
 その記事を読んでいて、ふーっと、連想が安曇野市議会の議場に飛んだ。昨年から今年にかけて、市議会を傍聴してきた。わずかな数の市民が議場の後ろから、議員たちの後ろ姿を目の前にして、議会の審議の様子を観てきた。現在の議場は、安曇野市に五か町村が合併する直前に堀金村が建てた庁舎の三階にある。庁舎も議場も、およそ村のものとは思われない立派なものだ。それは合併後に市庁舎、市議会議場として使われることを想定して建てられたからだと、当時の村長に親しかった人から聴いた。
 今年6月の議会傍聴は、「安曇野市を考える市民ネットワーク」の6人で全日程を行なった。中央に向けて傾斜をつけられた議員席の後ろ、議場のいちばん上の位置に傍聴席はある。傍聴席は横3列、3、40人ほどが座れる。傍聴席と議員席との間には、低い柵がある。柵の右端に議員席と傍聴席との間を行き来できる扉がある。
 ぼくは2列目で傍聴していた。すぐ近くに議員席がある。最後尾にいる議員たちまで、2メートルほどだ。議員たちの一挙手一投足が見える。目の前の議員が二人、発言中の議員の意見に対してブツブツと批判し合っている。見ていてなんとなく不愉快な気分になる。激しく市長と意見を交わした議員がいた。市長は追及する議員の論理をかわし続けた。討論が終わると、その議員の討論を聞きにきていた市民たちのなかから、ひかえめな拍手が起こった。すると議員の一人が、キッと後ろを振り返り、傍聴席をねめつけた。こういう些細なことからも、見えてくるもの、感じるものがある。討論が休憩になったとき、間の柵の扉を開けて議員の一人が傍聴席にやってきて、市民と話し合っていた。市民は支援者であろうか。
 傍聴で何よりも問題であると思ったのは、討論の中身であり、市長・行政と市議会の実態であった。充分討議が尽くされたとは思えない状態で多数決がとられていく。こうして政治は進められていくのか。傍聴しなければ分からなかったことである。
 6月議会を傍聴してから、新たな調査をした。いまの議員の任期中の議会について議事録を調べ、質疑、討論、一般質問に各議員はどのように参加しているかを明らかにするものである。この調べはついた。

 市民からストップの声が上ったものの、行政、市議会が無視し押し通してきた本庁舎建設計画は、新しい議場建設も含めて、工事が始まろうとしている。新しい庁舎、議員たち行政マンのフィールドは、莫大な借金のもとで作られる。このフィールドは、市民と政治を近づけるものになるのか、ますます「あなたまかせ」のものにするのか。国も地方も、政治はむなしい。9月議会に市議会議員の定数問題が登場する。市民は何を見て、どんな判断をし、市民の手による政治を生み出そうとするか。