いじめ自殺について思うこと(3)


 江戸時代末、勝海舟の父親、旗本の三男坊として江戸で生まれた勝小吉は、「夢酔独言」という生い立ちをつづっている。幼少年時代の勝のあばれん坊ぶりはまたすさまじい。
 「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいとおもう。ゆえに孫やひこのために、はなしてきかせるが、よくよく不法もの、馬鹿者のいましめにするがいいぜ」と、42歳のときに子孫のいましめに書いた記録である。そのなかの一つの話を紹介すると、
「おれは毎日毎日そとへばかり出て遊んで、けんかばかりしていたが、ある時亀沢町の犬が、おれのかっておいた犬と食い合って、大げんかになった」。これが発端で子ども同士の大げんかが始まる。勝のほうが8人、亀沢町は緑町の子どもを頼んで、4、50人。向こうは竹やりをもってきた。勝のほうは、六尺棒、木刀、竹刀、それでたたきあいをして追い返してしまう。二度目は、勝のほうが負け、ついに切れないなまくら脇差を抜いて躍り出て、追い返してしまう。深追いした弟が竹やりで突かれ、そこで勝が相手をなまくらで切りつけ、町中が大騒ぎになる。おやじはそれを見て怒り、小吉を三十日の押し込めにした。
 明治時代、夏目漱石は小説「坊ちゃん」には、中学校の生徒のいたずらが登場する。坊ちゃん先生が赴任した松山の中学校で、初めて宿直当番になった。宿直室で布団にはいったら、なにやら足に飛びついたものがある。ざらざらとしたものは、もも、しり、腹に飛びついてくる。毛布をめくってみると、バッタが5、60匹、どうもだれかがほりこんだようだ。寄宿舎の生徒を呼んで調べるがらちがあかない。それが終わると、宿直室の上の階で、3、40人ほどが二階が落っこちるかと思うほどドンドン拍子をとって床を踏み鳴らす。二階に駆け上がっていった坊ちゃん先生は、そこでまたいたずらに会う。真っ暗な廊下の向こうで大声ではやしたて、そちらに行くと反対側からはやし立てる。そこで坊ちゃん、廊下の真ん中にあぐらをかいて、
「今夜中に勝てなければ、あした勝つ、あした勝てなければ、あさって勝つ、あさって勝てなければ勝つまでここにいる」
と夜のあけるのをまっていた。
 戦後、自らのイギリスの学校生活を描いてロングセラーになった池田潔の「自由と規律」は、1920年に留学したパブリックスクールや大学での体験を書いている。
 ある朝、道行く人はあるカレッジの礼拝堂を見て仰天した。塔の頂点に白い陶器の便器がのっかっている。切り立つような尖塔にどうやって登って、便器をどのようにして持ち上げたものか。学校当局は掲示板に、「優れたユーモアも、時間的限度があり、それを超えると悪ふざけになる」と紳士的に訴えたがだれもこの危険な撤去に応ずるものがなかった。5日目に、また掲示が出た。
「当局は、便器が取り除かれない場合、公僕に命じてそれを行なわせるだろう。公僕は、家族係累のないものから選ばれるだろうが、この高塔に上る技術を持つものがいるかどうか疑問である。大学は貴下のスポーツマンシップに呼びかける」
 翌朝、塔の上からその白い便器は取り外されていた。
 この大学はケンブリッジ大学、このいたずらは国会でも取り上げられたらしい。学生の心に訴えた通達で、「犯人」はきちんと後始末をしたのだった。いたずらには、誰かを驚かせる快感がある。
 戦争が終わってまもなく、小学生だった二つ年上の兄とぼくは、家の前にあった大きな池の小屋で見つけた金属のへんてこりんなものを数本持ち帰った。池の小屋には戦争中、数人の兵士が常駐していた。ぼくはそのなかの、十代後半の新兵らしき男と仲良くなっていたが、敗戦と共に彼らはそこにあったものを処分して姿を消していた。持ってきたものは、直径20センチほどの円盤の真ん中に短い棒状のものがついていた。見たところ、輪投げの輪を投げ込む台のような形だった。それを何に使うものなのか分からなかったが、近所の子と一緒に、斧の頭を振り下ろして棒状のところを二つに折った。すると金属の中は空洞になっていて、何か粉のようなものが入っていた。兄はそれを水の中にほり込んだ。しばらくすると水中からあぶくが上ってきて、ピッピと水玉が水面を走り、やがてドッカーンと猛烈な破裂音が響き渡った。子どもたちは、得体の知れないそれを、爆発音をたてるものとして作られたものなのかと思っていた。
 ある日、兄は裏の水路近くに祖母を呼んできて、二つに折った金属を水に投げ込んだ。すざまじい爆発音が響いて水が跳ね上がった。祖母は腰を抜かすほど驚いた。これはかなり悪どいいたずらだった。祖母の驚き振りを見て、このいたずらはそれ限りで終わった。

 いたずらの思い出はかぎりない。いたずらは子ども時代のいちばん楽しい遊びだった。(つづく)