小さな市民の起こす小さな運動、そこから始まる


 レンゲの里で、レンゲ祭


 小田実はすごい男だった。彼が亡くなって今、彼の言ったことを吟味して、改めてこれはすごい人物を失ってしまったと思う。
 小田は作家であると同時に思想家であり、市民運動家であった。彼は、古代ギリシャソクラテス、あの死刑になった哲学者の裁判について述べている。古代ギリシャアテナイでは直接民主主義だった。裁判も陪審員が裁く。裁判員になる人は401人とか501人とかの数であった。第一回目の判決では、ソクラテスを有罪にすると判断をした人と無罪に判断した人の差は60票、ところが第二回目の裁判では圧倒的に有罪が多くなった。初め無罪で投票した人で心変わりした人が80人ぐらいいた。つまり投票に際して深く考えず、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、感情のままに動いた人たちがいた。

 そのことを書いてから、小田はこう言う。
「私はこれを青年時代に読んで、私ははたしてこの八十人のなかの人間じゃないかと思ったのです。ソクラテスは最後に、見放すように、『あなた方、私を死刑にした人たちよ、あなた方は仕方のない人間だ』と宣告するのです。私は衝撃を受けて、ひょっとして俺はこの八十人じゃないかと、つまり民主主義とは何であるかということを深く考えないで日々過しているのではないかと思ったのです。
 つまるところ、民主主義とは何かという大問題にわれわれは突き当たるのです。私が長年考えてきて、いろいろなことをやってみて、一つの結論はこうです。『大きな人間』という存在が、その大きな力を行使して政治や経済、文化の中心をかたちづくる。それに対して『小さな人間』が何をするか。『大きな人間』が、個人の問題にしても、制度の問題にしても、必ずしもいいものをつくりだすとは限らない。めちゃくちゃをするということが必ず起こってくる。それに対して『小さな人間』が、デモス・クラトス(デモスは民衆、クラトスは力、ギリシャ語のデモクラシー)、自分たちの力を信じて、反対する、抗議する、あるいはやり直しさせる、是正する、あるいは変更する、変革する、それが『小さな人間』のやることです。私はこれがデモクラシーだと思うんです。デモス・クラトスが『大きな人間』の過ちを是正する。
 是正する方法はいろいろあります。選挙もあるし、デモ行進もある。集会する場合もある。極端な場合は革命もあるだろう。『大きな人間』がかたちづくるものを『小さな人間』がデモス・クラトスで変えていく、是正する、反対する、抗議する。これがデモクラシーだと思うんです。これがなかったらデモクラシーはないんですね。
 『世直し』ということばをあえて使うならば、世の中は、絶えず世直しをしていく必要があると思うのです。でないと『大きな人間』がはびこって力のままにむちゃくちゃをするのです。」

 ベトナム戦争のとき、小田実鶴見俊輔らと「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を立ち上げた。初めは「小さな人間」の小さな集まりだった。その翌年、1966年2月、アメリカで「小さな人間」の集まりが生まれた。組織なき元兵士の、市民運動のような集まりだった。一団三十人ほどは、ニューヨークから貸し切りバスでワシントンに出かけた。小田実はそのなかに加えてもらった。彼らは、ホワイトハウスの手前の小さな公園で、
「私たちは今、こうしたまちがった戦争のダシに使われたくない、私たちは、大統領の政策から自分たちの切り離し、この戦争をいかなる意味においても支持していない、加担していないことを示す」
と表明し、世界大戦や朝鮮戦争でもらった勲章・勲記、従軍のあかしのリボン、除隊証明書などを大統領に突っ返す行動を行なった。その光景は、小田野の目に焼きついた。
 タクシー運転手、建設工事の人夫、編集者、教職員、駅の作業員、鉄道員などの「小さな人間」の行動だった。まだベトナム戦争が「いくらなんでもひどすぎる戦争」だと、アメリカの社会全体の認識にはなっていなかった。少数者の運動は前衛の運動だった。そこから始まったのだった。「いくらなんでもひどすぎる」認識は、社会全体に広がっていく。数十万人の集会、デモがアメリカ全土で展開された。これがベトナム戦争終結に向かわせる力となった。
 「ベ平連」の運動はそれとよく似ていた。ちょろちょろの運動はやがて大きなうねりとなった。小さな虫たちの運動は、アメリカ軍の脱走兵を支援する活動をも行なった。
 デモクラシーとは「民衆の力」、すなわち「小さな人間」の持つ力、それを実現するのがデモクラシー、民主主義のいちばん根本の原理である。小田は、そのことを生涯をかけて実践した。最後の大一番は阪神大震災の被災者としての運動だった。

 「『大きな人間』は大きな人間が作り上げた勢力・組織・運動、さまざまなもので『小さな人間』を巻き込んで、粉々にする恐れをもっています。『小さな人間』は、どうせ巻き込まれるのだけれど、巻き込まれながら巻き返すことが、私たちの根本にある倫理・論理ではないかと、私は考えています。」

 国レベルでも、地方レベルでも、事態は変わらない。小田が今生きていたら、この時代にどんな市民運動を起こすだろうか。
人を「巻き込む」という言葉、この言葉を使うことに抵抗を示したのは確か小田だった。「巻き込まれる」ことは主体性を奪われ、「巻き込む」ことは人の主体性を奪う。
 ぼくは今自分のやっている小さな運動を思いながら、小田を振り返っている。
      <『オリジンから考える』(鶴見俊輔小田実  岩波書店)>