碌山忌

 今日、4月22日は碌山忌だった。1910年、荻原碌山は、30歳の若さで、この世を去った。碌山美術館は、今日は入館無料で、館内でコンサートなどの催しがある。

 朝の美術館には、まだ人影が少なく、山桜の花としゃくなげの花がひっそりと咲いて、塔のある、レンガ造りの建物の入り口に吊るされた、碌山忌であることを表す暖簾だけが今日は特別な日であることをほのめかしていた。
 ぼくの愛する碌山美術館のたたずまいは、小さな村の教会のような静謐さであり、そこに流れる、しっとりと心になじむ香り高い気は、雑木林風の中庭のものだ。
 「文覚」、「女」、「坑夫」など数々の彫刻や、碌山につながる芸術家の、たとえば高村光太郎の作品などをゆっくり味わう。
 今日は特に、碌山の生涯最後の傑作「女」についての解説が、その彫刻の前で、学芸員からあった。この作品をどんな思いで、心に何を抱きながら碌山は創作していったのか、碌山と相馬黒光との関係などもうかがわれ、若くして逝った碌山の命の結晶を見る思いだった。彫刻にひそむ内的エネルギーを感じる。


 

 館内を移動しているとき、目の前に現れたひとりの白髪の男性を見て、思わず叫んだ。「平岡先生!」、5年前、北京で一緒に中国の労働青年に教えた仲間の先生だった。「どうしてここに?」、聞けば今朝東京を発って来たと言う。奇遇も奇遇だった。平岡先生は、今年78歳になるとおっしゃる。それでも日中友好の活動を続けておられる。握手したその手は、ごつかった。


レンガ造りの建物も魅力あるが、ログハウスの、木彫の豊かな建物も魅力がある。その一つにだるまストーブが燃えていた。屋根に苔が生えている建物もある。椅子やテーブルなどの調度品の、田舎風の素朴さに、制作意欲がかきたてられる。6つの建物は、初期に建てられた物ほど民芸風で芸術性が高い。後から建てられたものは、どうしても機能性を優先している。そうなると、人間味のあるオリジナルな味わいは喪失してしまう。


 昼ごはんをどこで食べようか、一緒に行ったサチヨさんとラーメン店を探して穂高の駅前を歩いていったら、インドカレーの店を見つけ、中に入った。ネパールの人たちが経営している店だった。ふるさとは、どこですかと聞くと、ネパールのポカラの西、70キロのところにある山村だと、いかにもネパール人らしい顔つきの若い店員がさわやかな笑顔で答えてくれた。
「ああ、ポカラ、ぼくはそこから奥へ山のほうに、ひとりではいったことがありますよ。」とぼくが言うと、
「ああ、マチャプチャレ。」
「そう、マチャプチャレ、それからアンナプルナ、登らなかったけれど。なつかしいね。」
 マチャプチャレはネパール人の、神の山である。
「ここ穂高は、ポカラと同じ。」
そう言って北アルプスを指した。ポカラの街から見るヒマラヤの高い峰に比ぶベくもないが。
「ポカラからアンナプルナの方へ登ったところに、きれいな石造りの家々が尾根筋に建つ村があったよ。」
その村の名前が思い出せないで考えていると、彼はいろいろと名前を言ってくれた。でも当たらない。
 そこの民宿で泊まったら、小学生ぐらいの男の子がいて、ぼくが日本人だと知るとノートをもってきて日本語を教えてほしいと言った。ここを通り過ぎていく日本人の登山者やトレッカーから覚えた日本語の片言を彼は話した。
 
 店の若いネパール人の日本語はまだ少ししか話せない。お客さんとの会話で勉強している。
 故郷を出てから、中東のドバイで働き、それから日本に来た。日本に来て2年になる。飛騨の高山、そして松本、6ヵ月前に穂高に来て、ずっとこのカレーハウスをやっているということだった。
 秋に一度お父さん、お母さんに会いに、ふるさとの帰りたい、と別れ際にやっぱり親しげな笑顔で言った。
「また、来るからね。」
「また、来てください。」
それから井口喜源治記念館に立ち寄って碌山美術館に戻った。