田中正造の思想、自治と政治



 「田中正造 その生と戦いの『根本義』」(林竹二 田畑書店 1977)を30年を経て読み返してみた。林竹二の精魂を傾けた研究は圧倒的な力で迫ってくる。1970年代、林竹二は、宮城教育大学学長を退官した後、「人間について」や「開国」をテーマにして全国行脚しながら、各地の学校で授業を行なった。
 田中正造の人生と、明治期の日本の国家と政治の実相をたどってみると、現代日本は本質の部分でいまなお進歩していないのではないかと思えてくる。田中正造の希望と絶望は、現代の希望と絶望に続いている。
 明治の国家は足尾銅山を富国のために保護し、銅山の鉱毒が山と川を破壊し、渡良瀬川の流域の田畑を不毛の地に変えていっても、それをかえりみず、結末は、無法非道にも谷中村をつぶすことであった。
 林竹二は、1975年、宮城教育大学学長を退官するにさいして、同大学で最終講義を行なっている。その長い講演は、田中正造の生き方についてだった。正造が谷中村の残留民とともに生きるということは、どん底の人間の生活のなかから人間の再生・復活を求めるということであった。
 講演の中で、林竹二は次のようなことを話した。今自分はこのような部分に心ひかれるものがある。


田中正造が考えていた仕事の核心になっていたのが、『自治の復活』であります。ここにいう自治が、明治国家における地方自治制度にのなかで、谷中村を復活させるということでは決してない。
 谷中村が国や県の策謀によって、圧殺されてしまう前に、実は村内に村の買収を望むような有力者たちがいたのです。それからさらに、それを推進するために県が堤防を破壊するというようなおそるべき工作を許す自治意識の退廃があった。そういう状態で、村は本当に自ら救う意志を持たず、自分を救う能力ももたなくなってしまっていた。明治35年あたりから、谷中村には村長のなり手がいなくなってしまった。その結果、郡役所の書記が村長の仕事をして、その手で谷中村は廃されてしまいます。ところが対岸の二つの村は、ここでも明治35年の洪水のあと、県が堤防の修理を拒んでいたのですが、田中正造の指導のもとに自治確立の実行に乗り出して、県庁を追い詰めて堤防を修築させることに成功しております。県が堤防の修理をしないならそれでよい、堤防は自分たちで修理する、しかし、そのかわり国民の二大義務とされている納税と兵役の義務は拒む、という決議をして、直ちに堤防の修理に着手しようとした。県庁はあわてて堤防の修理に手をつけたのであります。
 正造の念頭にあった『自治』とは、結局自分で自分を救う意志、その意志に裏づけられた行為にほかならない、それが自治だ、という理解が正造にはあったのです。ところが谷中村にはそれが欠けていた。谷中村の残留民のやっていることは、狡猾であったり、愚かであったりした人間たちのやったことの、尻拭いだと言っています。罪のないものが、愚かな行為の結果を引き受けて、日本の地獄のなかで生きるという選択をした。正造はそこに不屈の自治への意志を認めた。その意志なくして地獄から脱出する道はない、というのが田中正造が最後にたどりついた考えであったようです。」

田中正造という人は、私の理解するところ、本来の意味で思想家だったと思います。生きるための手段、戦い続けるための手段が、一切失われてしまっても、なおそこで生き抜くこと、戦い続けることを自分の課題として捨てない。それは、自分を不断に再形成することによってしか、新しく生きる道を探ることができないわけであります。絶えざる自己の再形成の能力に、生と戦いの可能性がかかっているのです。
 正造は、人民の権利を守るために議会が最善であると信じたから国会開設運動に挺身し、議会に入って十年、鉱毒問題解決のために奮闘しますが、議会は人民の権利を守る能力も意志も持たない。政治はそういうことよりはもっと手近な、政治家たちのおもわくで動いていて、そのおもわくのなかでしか政治家としての活動ができない。正造は、抜きさしならない政治的課題にとって、現実政治がそして議会が何であるか見きわめると、自分がそこに身を置いている議会、あるいは政治の世界を弊履のように捨ててしまう力を持っていた。私はこの力にゆえに、田中正造を思想家だと考えるのです。
 人民を代表して議会で戦って、そのむなしいことを知って、正造は谷中村に入った。それは人民のなかに入って人民と共に戦うことであったのですが、この行動を通じて正造は、やがて本当に人民のなかに入るということがどれほど困難なことか思い知るようになります。そうして彼は、本当に根底から自分をつくり変えることによって人民のなかに入る道をさぐったのであります。そういう、不断に自分を捨て、自分をつくり変えるという仕事、これが、私は思想というものなしにはできない仕事だと思うのです。」