危険を感知し行動できる子どもは遊びの中で育つ


 堀金公民館へ車で出かけ、神社の前まで来た。左は民家、右は神社の林、道は狭い。あと15mほどで左折する。民家の側には歩道はなく、神社側には細い歩道が造られている。そこを小学生の一群が下校してくるところだった。ぼくは左折するために方向指示器を点滅させ、徐行態勢にはいった。視線は右の歩道を歩いている小学生の群れにちらっと行った。その時、いきなり左の道路際の垣根から二人の小学生が飛び出してきたのが左の視野に入った。垣根の途中に出入り口があり、車と垣根との間は1メートルも開いていない。瞬間、ぼくはブレーキを踏んでいた。ランドセルを背負った二人の男の子は五年生ぐらいに見えた。二人は顔を左右に向けて確認することもなく、一瞬足を止めたが、停車したぼくの車の直前をとことこ横切って、右の歩道を歩いている小学生の群れの中に入った。ぼくはほっと安堵した。左折しないで直進する車なら、そこは信号のない三叉路だからスピードを上げ、二人は跳ね飛ばされていたかもしれない。
 後から思いが次々湧いてきた。あのとき、どうして車の窓を開けて二人に叱るか注意するかしなかったのだろう。学校へ連絡しておこう、そういう思いが湧いたのは夜になってからだった。翌朝ぼくは学校へ電話を入れた。
 続いて湧いてきた考えがあった。現代の子どもたちに、危機を感知しそれに対処する力が育っているだろうか。突如やってくる危機、しのびよってくるピンチをキャッチしそれに対応して行動する力が鍛えられていないのではないか。「交通規則を守りましょう」「信号に従い、横断歩道は左右を確認して」というような知識をいくら教えても、それを知っていることと、感覚、身体が危険を避け、危機を予知して動くことができるかどうかは別ものだ。野生動物なら、危険を感知しそれを避ける力があるかないかは生存にかかわる。だからその能力は高い。
 18歳のとき、初めて登った穂高の涸沢カールで落石にあったことがある。雪渓の上部から人の頭ほどの石が大きくバウンドしながら音もなくこちらに向かって飛んでくる。リーダーの野村先生が、「らくせきー」と大声で叫んだ。逃げることはできない。石は直撃するようにやってくる。ぼくは、わずかな身のこなしで避けるために、石を観察しその方向を瞬時に判断して身をかわす身体になった。うなりをあげて石は、右側数メートルを通過していった。恐怖のために目をそらしたり、立ちすくんだりする人は、この危機をほんとうに危険なものにしてしまう。感覚も身体も硬直して、危険をとらえられなくなるからだ。
 危機が襲いつつあるとき、それをとらえる感覚、身体がつくられているか、現代の子どもたちはそれが鍛えられていない。地震津波、竜巻、洪水などの自然災害に、交通事故、原発事故などの人工的な災害、それらにそなえて知識を得ることとそれに対処できる能力とを育まねばならない。
 この五月の連休に、北アルプスでは遭難事故が相次いだ。自然の猛威を言葉で知っていても、実際に遭遇するとそれに打ち勝つ力は乏しかった。五月の山は晴れれば天国、天候悪化すれば地獄だ。南北に伸びるアルプスは西方から暴風雪の襲うことが多い。気温は急低下し、途中で雨に会うと服は凍結、強風はたちまち体温を奪い尽くす。栂池小屋から弁当を二人前ずつ持って白馬岳の山小屋をめざした一行は、白馬乗鞍岳に登った途端に西からの猛烈な暴風雪に襲われただろう。白馬岳までの稜線、さえぎるものなく小蓮華岳を越えると前進が阻まれ、後へも戻れなくなった。キルティングを着、ツェールトを被るという気力さえ奪われた。そして体力が尽きた。

 ぼくは、現代の子どもの生育に危機感を覚える。乳幼児の時代から、どのように育てられるか、そこに大きな欠落がいま起こっている。危機を感知し、それを避けることのできる能力は、子どもたちが野外で遊ぶことによって身に付いていくものである。危険と思われる箇所に柵をつけたり、高木を伐ったりして、事故が起こらないようにしているが、それはむしろ責任を追及されないようにしているにすぎない。危険を過剰に予防する対策をとることによって、危険を察知し回避する能力が育たなくなっている。

 危険を察知し、乗り越える能力は子ども時代の遊びによって身に付いていく。たとえば「忍び足」という遊びがある。オニになった子が眼をつぶって数える。他の子は忍び足でオニに近づく。オニはそれを気配で感じる。そして振り向いて動いた子どもを見つける。この遊びは身体の全神経を働かせ、瞬時に行動する感覚を研ぎすます。
「おにごっこ」は、オニと他の子は互いに相手を観察し、逃げ方、追いかけ方を考え、工夫して行動する。はらはら、どきどき感が野性を鍛える。
 「カンけり」は、「かくれんぼ」系の遊びの発展形。逃げた子らはどこに隠れているか、オニは五感を働かせて、隙を見せないように気をつけて探す。隠れている子はオニの動きを感覚でキャッチしながら隙をうかがい、機を見てカンをけりに走る。
 「タンテイ」という男の子の燃える遊びがある。相手を観察し、作戦を考え、いかに逃げるか、どうすれば相手を捕まえられるか、挟み撃ちにし、包囲網を考え、興奮が最高潮に達する。おもしろくて体力が鍛えられる。
 「転がしドッジボール」のボールを複数にして行なうゲームは、どこからボールが転がってくるか分からない。周囲を見回し、ボールを避けながら、行動する。
 「木登り」は、どのように腕と足を置いていけばいいか考え、バランスをとり、木の枝の強さをキャッチし、木の肌触りを感じ、葉っぱのにおいを嗅ぎ、危険と安全の範囲を認識していく。
 「川遊び」は、水の流れの様子、水の温度、川の性格、水底の状態など、川の安全と危険を身をもって知って水と戯れる。
 あらゆる遊びは、子どもの成長を促し育てるものである。ところが、「木登り」にしても「川遊び」にしても、危険だからと禁止し、フェンスで囲い、あるいは樹を伐ってしまう、そうして子どもは室内の「安全圏内」に閉じ込められるようになった。
 
 学校、家庭、児童館、居住地域から、子どもの創造的な遊びが消えるにしたがって、子どもの危険感知能力や危険回避能力は育たなくなった。外遊びを失った子どもたち、野性を失った子どもたちの未来はどうなるか。
 「夜露・朝露」を知らないという高校生がいた。身の回りに自然があっても、それに目を向け、心と体で感じ、認識することをしていない。その子がそのまま大人になって親になれば、自然からかけ離れた親のまま、子どもを育てることになる。
 子どもの遊びを大切にして、遊びの歓声がこだまする学校・児童館・公園を取りもどしたい。学校・児童館・公園に、木登りもできる樹を植え、「かくれんぼ」で隠れることのできる木立や林をつくれないものか。夏の昼間も紫外線を避けることができ、涼しい木陰でおしゃべりのできる高木を植えようではないか。