[環境] 子どもの原っぱ <4>



 写真家・宮原洋一が、写真集「もう一つの学校」の撮影を通して観た子どもの現状を、堀切直人は資料として提示している。「もう一つの学校」は、「原っぱ」などの子どもの遊び空間のことだ。
 「1960年ごろから子どもたちのタテ型の遊び集団が解体しはじめ、ガキ大将がいなくなっていったといわれる。宮原洋一の写真集によると、東京下町には1970年前後は、まだ活気に満ちた外遊びの子ども集団が残っていた。それが70年代後半になると、生気と余裕に欠けるようになった。遊びながら時間を気にする子どもが出てきた。当時、学校での『落ちこぼれ』が問題となり、急速に子どもたちの塾通いが当たり前のようになってきたからだ。こうして子どもの遊び集団は次第に衰退し、1980年代前半に『消滅』と言ってもいい状況になった。町で見られる子どもの姿は、塾通いの、勢いをなくした後ろ姿であった。遊び仲間を失った子どもがひとり、所在なげにしていたり、ゲームセンターで遊んでいる姿であった。」
 遊ぶ子どもを撮り続けてきた写真家の土門拳は、1960年代以降、子どもの遊ぶ情景を写真に撮らなくなった。その理由を1977年、写真集に書いている。
 「ぼくは子どもの写真をずいぶん撮っている。天真爛漫な子ども、子どもらしい子どもは、もう見つからない。試験、学習塾というような、子どもを締め付ける社会の風潮が、子どもから子どもらしい大半を奪ってしまった。」  
 社会福祉学者の一番ヶ瀬康子の著「子どもの生活圏」では、
 「現在の子どもは遊びを奪われることで、生活を奪われている。子どもの生活にとって中心であり、成長にとって、もっとも自然的な、また社会的な営みである遊びが、いまやおしつぶされてかけている。子どもは、遊びを中心に全生活を通じて、その人生の基礎が形成されていく。遊びの中で学び、大人になっていく子どもなのに、生活の権利、発達の権利を奪われている。」
 1980年以降、実態はますます深刻になっている。子どものそういう微妙な成長の仕組みをとらえられない大人たちには、子どもの悲鳴が聞こえない。教育関係者も行政関係者も、知識を教えることが教育だと矮小化した施策しかやれない。児童公園、児童遊園などをつくり、滑り台やブランコを置いたりはするが、子どもは日常的にそこに集まってはこない。そこは集団で遊びにふける場所にならない。子どもの聖地にはならない。隔離された檻のようなところになってしまう。子どもの遊び、生活の根本には秘密性がある。子どもの生理は常に大人の見えないところで遊ぶことを欲している。
 人類の長い歴史を振り返ってみれば、子どもの遊びの場は、常にそこらじゅうにあった。1945年の戦争終結からの十数年は物資が不足していたが、子どもの遊ぶ条件はあった。もっとも自由な時代だった。遊び場も遊びの材料もいくらでもある。瓦のかけらを使った「かわら当て」という遊びは、遊びの芸術品だった。五寸釘は、「釘さし」になって技を競った。杉の実は「杉だま鉄砲」になった。土、砂、草、花、虫、魚、竹、石、木、木の実、水、ヒモ、紙、布、何もかもが遊びの材料になった。身体と身体をぶつけ、接触し、友だちの汗のにおいをかぎながら熱中する遊びは最高におもしろかった。そこに人間を感じた。遊びは、解放であり、学びであり、感覚感性や技術の練磨であり、創造・創作であり、友情の交流であった。
 1970年以降、子どもの世界は異常になった。
 この危機にあって、堀切直人は、冒険遊び場運動の推進者、イギリスのアレン・オブ・ハートウッド卿夫人の「都市の遊び場」の論をもとに述べている。
 「子どもたちが活力を取り戻すためには、大人たちが子どもの本性を見極め、子どもたちをコンクリートアスファルトの荒れ地から、土の荒れ地へと解放しなければならない。また、彼らを監視することをやめなければならない。子どもの本性とは、『疲れを知らない探検家』であり、『汚れて雑然としているのが好きだ』ということだ。子どもは無秩序を喜び、そこから自分の秩序をつくりだすものだ。子どもたちはガラクタ置き場や建設用地でいたずらをしたり、そこにある廃材を使って自分たちで遊びを発展させるほうが好きである。人の眼には普通のガラクタにみえるものが、実は非常に創造的で想像力豊かな遊びと密接に関連がある。子どもたちには、多様な活動や、自由に新しいことに挑戦して自分を試せる場が必要なのだ。
 子どもは危険な遊びを好む。子どもは危険を冒し、その刺激を楽しんだり、自分でものを見出したりする。危険を冒して道具を克服し、道具を使うことを体験することは有益である。生きるためには勇気と忍耐力がいる。危険な遊びは、子どもの独立心や自信や、自分で身につけた手段で生きる能力を高める。
 子どもは大人の介入できない、自分たちの秘密の世界をつくろうとする。子どもは自分の世界を持つべきである。そこは遊び、友と逃げ込み、遊びの中の真実の約束をする機会を持ち、家族の支配から解放される場所である。独立は、家族への愛を目覚めさせる。」