福島の子どもを放射能から守るプロジェクト

 (写真・昨年夏のキャンプファイア、南相馬の子どもたち)



昨夜、「安曇野地球宿」に7人が集まって、今夏の「福島の家族たちを受け入れる保養プロジェクト」の企画を相談した。
黒沢川で「子ども冒険クラブ」を運営している大浜さん夫妻は、小学生の女の子を連れてきていた。彼女は、みんなが話し合っているテーブルの隅っこで静かに学校の宿題を広げ、それに没頭していて、その姿はなんともかわいく、ほほえましかった。
「地球宿」を営む望三郎君は、前日に福島の子どもを守る取り組みを考えている人たちの松本の会合にも参加し、昨日「地球宿」を訪れた「放射能から子どもを守る福島ネットワーク」の吉野裕之さんとも話し合っていた。
企画会冒頭に望三郎君は、雑誌の「The big issue」(ホームレスの仕事をつくり自立を支援するJAPANビッグイシュー日本版)を手に持って、そのなかに特集されている「いま、福島の子どもを守るには?」の吉野裕之さんの記事を朗読した。
そのなかでポイントになったのは、「保養」という言葉だった。
吉野さんは、避難したくてもできない家庭がある、だから「避難」とか「疎開」とかという言葉は使いたくない、遊びを兼ねてというニュアンスのある「保養」という言葉を使うことにした、と言う。現地の状況を考えたら、学校ぐるみ、クラスぐるみの、友達とともに参加できる企画を希望する。廃校や空き教室、空き施設などを使った保養プロジェクトを考えているのだが、と。
成長期の子どもたちへの放射線の影響は大きい。子どもたちは外遊びはできず、室内にこもる生活になってストレスがたまっている。「保養プロジェクト」は、免疫力を高めることにいくらか役立つだろう。「子どもたちが笑顔で走り回る日常を再び取りもどしたい」。
望三郎君の朗読を聞いていると、あのなつかしい歌が心の中に湧いてきた。笠木透が作詞作曲し、ザ・ナターシャセブンの高石ともやも歌った歌。30年ほど前、ぼくはかの場所で、みんなと涙して歌った「父さんの子守唄」。
    
   生きている鳥たちが 
   生きて飛び回る空を
   あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
     目を閉じてご覧なさい
     山が見えるでしょう
     近づいてご覧なさい
     辛夷(こぶし)の花があるでしょう

      生きている魚たちが 
      生きて泳ぎ回る川を
      あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
        目を閉じてご覧なさい
        野原が見えるでしょう
        近づいてご覧なさい
        リンドウの花があるでしょう

   生きている君たちが 
   生きて走り回る土を
   あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
     目を閉じてご覧なさい
     山が見えるでしょう
     近づいてご覧なさい
     辛夷(こぶし)の花があるでしょう

去年の3.11後、「地球宿」を核にして「安曇野ひかりプロジェクト」を立ち上げ、さまざまな震災支援をやってきたグループ。この夏はどのような形のプロジェクトを生み出せるだろうか。手持ち予算はわずか、施設は「地球宿」とテント、支援メンバーは手弁当、なけなしの人の集まりが知恵をしぼって、動こうとしている。
ぼくはそこでまた、記憶が遠い過去に飛んだ。
「若いみなさんは知らないでしょう。戦時中、戦火から子どもを守るために、学童疎開が行なわれました。国家的事業でした。学校ぐるみ、クラスぐるみで、田舎のお寺などへ、町の子どもたちは先生に引率されて疎開しました。それは多くの困難な問題をかかえ悲しみを生みました。それでも子どもを戦火から守るの一点で、食料、食事、暮らしなどの欠乏を抱えながらも実行されました。」
あの時代であっても、あのようなプロジェクトが行なわれた。戦後67年、平和と人権を守る国、日本のいま、子どもを放射能から守るための国家的プロジェクトはどうなっているか。
世間も、震災から二年目に入り、子どもたちへの放射能の問題はもう終わったかのような動きだ。
安曇野の小さな運動体で出来ることは小さい。しかし、この輪をもっと多くの人たち、多くの地域に広げていくために、発信していくことが必要だ。まずできることから始めよう。
夜、9時、リンゴ畑のなかの道を車で帰ってきた。