キジの観察


 眼の前のくさむらから、あわてふためいたキジがとびだし、逃げるように速足で走り去っていく。顔が紅く、腹は黒っぽく、翼と背中に虹色がかった白緑色、雄のキジだ。今年はキジの声をよく聞き、姿もときどき目にする。
 雄キジはとことこ走って麦畑に入り、姿が見えなくなった。緑あざやかな小麦は、今年の冬が長かったせいか、まだ10センチから20センチほどで、麦畑に入っても、キジは姿を隠せまい。ぼくはランと野道を歩みながら、キジの潜んだらしい麦の列の間を確かめるように見ながら進んでいったが、キジの姿はどこにもない。麦畑を二枚過ぎても見つからない。隠遁の術かなと思っていると、もう一枚向こうのタマネギ畑に姿が見えた。キジはあぜに立って、しばらく周りを観察し、ケーンケーンの二声鳴いた。それからタマネギ畑を横切って、ビニールハウスを潜り抜け、農小屋の前を急ぎ足で走りすぎた。前方に車が通る舗装道路がある。キジは道路の手前で安全を確認し、一気に道路を横断して、向こうのタマネギ畑に飛び込んだ。ぼくとランは、キジと少し距離を保ちながら付かず離れずについていった。キジは後をつけてくるぼくらを気づいてはいるようだが、あまり警戒する風でもない。
 キジの進む道は除草剤のために草が枯れているところに入った。この野道は、夏場は草ぼうぼうになるところで、だれが管理をしているのか、ひどく荒れている。手っ取り早く除草剤で草を退治するようなことをしているから、そうとうの怠け者だ。枯れた草の道は気分がよくない。キジはそこを過ぎて周囲の見渡せるところにくると立ち止まり、首をまっすぐ空に向けて伸ばした。すると、頭の先から脚の先まで、縦長の形になる。敵はいないか、テリトリーに侵入してくるオスはいないか、配偶者候補のメスはいないか、と見回し、またケーンケーンと鳴いて羽ばたきをした。一声鳴いてからバタバタと翼を拡げて羽ばたき二声目を鳴く。羽ばたく音も聞こえる。やはりこのキジはメスを求めているのだろう。キジの声はかなり遠くまで聞える。いつも声だけ聞いて、姿を見ることが少なかったのだが、今日はどこまでも一緒だ。野道が十字路になっているところでキジは右に曲った。歩く時の姿は、首を前方に伸ばしながら上下させ、尾羽を後ろに伸ばし、鳴くときの縦長から横長の形になる。
 「キジも鳴かずばうたれまい。」ということわざがある。「無用のことを言わなければ、わざわいをまねかないですむ。」という意味で使われるが、実際にキジ猟をする猟師にとっては、こんなに飛ばないで歩き、大声で自分の居場所を示してくれる鳥は、実に見つけやすく撃ちやすい鳥であったことだろう。そんなことを考えながら、また後を追う。ランの眼はキジを追う眼になっている。ランは首をすくっと伸ばし、キジの姿をとらえている。キジはまた麦畑に入って、あぜの上に立って、二声鳴いた。そのとき、山手のほうの畑から、ケーンケーンと声が返ってきた。別のキジだ。目を凝らして見ると、上の屋敷近くにそれらしいキジの姿があった。この辺りにテリトリーの境界があるのかもしれない。二羽のキジは静寂が辺りを支配すると、間隔をおいて鳴き交わした。ぼくらが後をつけてきたキジはそこから上へは行かないで、桑の木の辺りをゆっくり歩いている。追跡はそこまでにした。三十分ほどの追跡だった。こういう観察もいいものだ。
 生物学者は、何日も何か月も、一つの生物を観察しつづける。アフリカでチンパンジーやゴリラの生態を観察した研究者たちは、その間近にいつづけて、彼らの環境の一部に融けこんでいた。朝から晩まで動物と暮らす。そういう人生もやってみたいなと思う。
 「日本の野鳥」(山と渓谷社)に、岩手県の岩泉のキジのことを書いていた。戦前その地方はキジの多産地で、大豆畑でたくさんのキジが鶏のように餌をあさっていた。朝、山からキジの雄たちが長い尾羽を引いて滑空してくる様子はみごとなもので、近くの村では百羽近いキジが群れていた。かつての日本にはそういうキジの天国もあった。ぼくの今住んでいる安曇野のキジたちは、キツネや猫や、カラスの襲撃をどのように防ぎながら、春の野のどこで営巣しているのだろう。麦畑のなかだろうか。
 地震の前には、キジが鳴くという記録があった。浅間山の噴火の前にあちこちでキジが鳴いた。彼らはそういう地震の前のかすかな揺れを感じる能力を持っているのかもしれない。