子どもにとっての理想の学校とは


 世界でいちばん自由な学校「サマーヒル・スクール」に、小学校四年生のわが子、拓を送った坂元良江の手記を読んだのは1984年だった。
 東京の公立学校での拓は、先生にとってあつかいにくい子どもだった。学校生活の記録(通信簿)には、『授業中奇声や雑音を出し、迷惑をかけるので気をつけましょう。集中力が欠け、ほとんど挙手しない。問いかけの反応もなく自分のカラに閉じこもりがちです』と書かれていた。
 その子がイギリスの学校に入ることを自分の意志で決めた。
 「サマーヒル・スクール」は、A・S・ニイルが創立したフリースクールである。
 「何百という子どもたちが私に手紙をくれるのはいったいなぜだろうか。‥‥『「サマーヒル・スクール」』のイメージが、彼らの心の深層にふれるからである。自由への渇望、家庭や学校の権威にたいする憎悪、大人と親しくつきあいたいという願望、そういった感情にふれるからだ。サマーヒルでは大人と子どもの間にみぞがない。」(ニイル)
 親の坂元良江はこう考えた。
 「このまま小学校を終え、中学校になり、どこかの高校にやっとひっかかって、特別の目的もないままに浪人などして、これといった特徴もない大学に入り、なんとなくサラリーマンになるくらいのことは拓にもできるだろう。ただ私は、大きな喜びも幸福も感じることなく、自分にプライドを持つこともできないままに、なんとなく他の人たちの後をついて歩くような人生を息子におくらせたくなかった。いい学校に入ることや社会的成功をおさめることではなくても、自分が幸福だと思え、自分に自信を持てる人間になってほしいと思っていた。そして私たちは『サマーヒル・スクール』を選んだ。すでに敷かれたレールの上を歩くのではなく、そのつど自分の道を自分で選んでいかなくてはならない人生を、息子に選ばせてしまった。日本での学歴はなにしろ小学校中退なのだから。」
 
 サマーヒルの生徒は、自分の時間を有意義に計画的に使い、学校の自治のための全校集会に参加しなくてはならない。全校集会は、週に4回開催され、日々の生活や学校の規則を議論する。生徒も教員も校長も、一票の投票権をもって参加する。
 サマーヒルの原則は、民主主義と社会的平等という大原則である。

 「サマーヒル・スクール」の休暇のとき、拓は同じ学校の生徒の家にホームステイした。その家庭は、子ども三人を「サマーヒル・スクール」に通わせたくて、二年半前に引越しをしてきたのだ。5エーカーの土地と、15部屋もある300年の古い家。ニワトリとアヒルとガチョウ、豚、犬を飼っている。野菜を作り、パンを焼き、子どもたちも一緒に手伝いながら生活を作っている。
 拓からの親への手紙に、
 「ぼくはすごくいっぱい、とりのすを、しっています。そのうち三つはとりのひなが、はいっています。」
と書いてあった。
 1981年、拓の5年目の休暇に、「夏の楽園、キャンプ」が催され、テント暮らしをした。ある日の午後九時半、夜のウォーキングがあった。

 「町をすぎ、林を抜け、ちょっとした山路もあってけっこう歩きがいがあった。林を抜けたころ、とつぜん眼の前に不夜城のように明るく電気のこうこうとともった巨大な建物が現れた。周囲の環境とはまったく異質な風景である。原子力発電所である。まだ人びとが原子力発電所についての情報も知識も持たないころに建てられたものだが、第二号基建設に反対する運動が今は盛んに行なわれている。サマーヒルのなかにも市民運動に積極的に参加している先生も何人もいるし、逆に原発推進派の先生もいるとのことだ。子どもらの関心もかなり高い。
 『夜中に原子力発電所に雷が落ちたんだよ。原子力発電所が燃えているって、大騒ぎになったんだよ。』と拓は話す。『原子力おことわり!』のバッジをつけている子もいるし、『石器時代の生活おことわり、原発の推進を!』のステッカーを自分の部屋のドアに貼っている子もいる。
 子どもたちは、生活の中で、『原発』も『戦争』も学んでいる。」


 そのころ大阪市立大学の堀真一郎教授が、ニイル研究会を開いていた。ぼくは、その研究に参加したくて、1988年、内地留学を希望し論文を提出した。しかし大阪市教育委員会は認めなかった。
 その後、堀教授は大学を辞め、研究を実践に移した。そして「学校法人きのくに子どもの村学園」を、1992年、和歌山県橋本市でスタートさせた。戦後はじめて文部科学省から学校法人として認可された自由な学校である。
 現在、「きのくに子どもの村小中学校」、「かつやま子どもの村小中学校(福井県)」、「南アルプス子どもの村小学校(山梨県)」、「北九州子どもの村中学校(福岡県)」、「きのくに国際高等専修学校和歌山県)」があり、約300人の子どもたちが寮生活を送りながら学んでいるという。