生徒たちがつくる授業 討議のある授業 (一)

 

 
 授業とはこんなにもおもしろいものか、と思える授業はそう多くないが、そういう授業を行なうことができれば、それは生徒と教師の心に残り、その後に何らかの影響を与えることだろう。
 一方的に教えまくり、生徒はしんと聞いている、それで自己満足という授業はつまらない。授業は教えているつもりが、参加していない生徒がたくさんいる。
 授業がもっとも能動的になり、活気に満ちるのは、生徒たちが身を乗り出して自分の考えを発し、別の生徒が異論を出し、次々と出される意見によって、思考が深まっていく授業である。授業は思いがけない方向に動いていく。教師は眼を見張り、内心にやにやして傾聴している。まちがった意見のように思われても、意外な意見が討議を深めることがある。
 ぼくの「目からウロコ」の最初の体験は、当時国学院大学教授であった友田不二男のカウンセリング講習会だった。1963年の夏、高野山大学でカウンセリング協会の合宿講習会が開かれ、同僚の美術教師井上さんと参加した。ぼくは26歳、井上さんは25歳だった。友田はロジャースの「ノンディレクティブ カウンセリング」を教育現場に取り入れて実践していた。講習の初日、全国から集まってきた数十人の教師たちは、宿坊の大座敷に大きな円形になって座り込んだ。友田教授はそのなかにいた。
 講習が始まった。ところが友田教授は何も言わない。みんなは友田が話すのをじっと待っていた。5分たち10分がたった。教師たちの中からざわめきが起こり、
「いったい、どうしたんですか。」
「なんで黙っているのですか。何を待っているのですか。」
 意見を出す人が出てきた。それでも友田は黙っている。
 次第に怒りだす人が出てきた。
「黙っていたら分からないじゃないですか。なんとか言ってくださいよ。」
 すると友田はが言った。
「黙っていたら分からない。そうですか。そう思うのですね。」
 そしてまた黙ったまま。
「私は習いにきたんですよ。どうなっているんですか。」
「あなたは習いにきたんですね。そうなんですね。」
 友田が応える。
「私は富山から来たんですよ。それなのに教えないんですか。」
 次第に怒りと抗議の発言が友田に投げかけられるようになった。
「こんな会に来るんじゃなかった。私は帰ります。」
 そのとき、
「これはグループカウンセリングじゃないかな。」
と言い出す人が出てきた。
 ぼくは不思議な思いでじっとみんなの様子を見ていた。意見がつぎつぎ出てくる。そのうちに、今の状態はこういうことではないかと発言するものが現れてきた。雲をつかむような気分だったが、ぼくの心に何かを探究しているような謎めいた心境が生まれてきた。井上さんも、不思議な愉快さが湧いてきているようだった。そうして今をどうとらえるのか、ここから何をしていくのか、どうしたらいいのか、自分の考えを出し始めた。初めのいらだちは消え、謎を解いていくような好奇心がみんなの心を占めてきていた。会は、講習会ではなく、自分たちで何かを考え出す話し合いになった。教えを受けるという受動的態度から、能動的態度への転換だった。
 こうして二日目に入り、ロジャースの理論にうつり、カウンセリングの実践記録がみんなに渡されると、講習会は本格的になった。
 三日目だった。教育の舞台でこの理論が実践されている学校が紹介された。紹介したのは大阪市大の教授だった。カウンセリング理論は個々の相談活動のみでなく、広く教育実践に生かされていることが示された。
 合宿講習の最終日の夜、コンパが開かれ、酒も出た。井上さんが友田教授に言った。
「先生、私は先生にほれました。」
「おもしろかったです。すごい刺激を受けました。」
 ぼくもほろ酔いの友田教授に言った。
 友田教授は、酒に酔い、論語の一節を詠った。
「賢なるかな、回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や‥‥※」
 友田先生は上機嫌だった。

 講習会から帰ると、カウンセリング理論を教育実践に取り入れているという、教えられた学校二つを訪問しようと思った。一つは大阪の豊中の小学校だった。もう一つは広島県竹原の加茂川中学校だった。
 その冬、加茂川中学へ一人で出かけた。旅館で一泊し、朝早く生徒たちの登校時間に間に合うように学校に行った。雪が降っている日だった。雪のなかを生徒たちが登校していた。
 校長は、夕方まで自由に参観していい、と言ってくれた。まず職員朝礼に入った。どこの馬の骨か分からない若い教師のぼくを、教師たちは空気のように受け入れてくれて一切お客扱いはせず、ぼくは自由自在、気楽な気分でどの授業にも入ることができた。
 まさに「目からウロコ」だった。教師は教室の一角で椅子に座っている。生徒の一人が立ち上がり、
「前の時間はここまで勉強したから、○○ページから読みます。」
と読み始める。それから展開された学習は、まさに生徒たちが自分たちでつくっていく授業だった。一人が一つのレンガを積むと別の一人が自分のレンガを積んだ。理解が不十分だったら、レンガの積み直しをしようとする生徒が出てくる。ひとつの建物が生徒たちの総合的な力でつくられていた。
 生徒の自主性自発性を最大限引き出し、生徒たちが自力で問題を解決していく教育実践だった。学校はそれをカウンセリング方式だとか特別な名称のくくりをしてはいなかった。

 自分もこの方法を試みてみよう、そうしてぼくは国語の授業を変えることにした。子どもたちは動き出し、それは目を見張る思いであった。それからまた授業は形を変え、生徒の自発的な能動性と教師による適切な指導、その両者が調和していく授業の創造をテーマにした。次の段階の始まりだった。

※ (孔子の言葉)『顔回は何と賢い人物であろうか。竹の弁当箱一杯の食事と瓢(ひさご)の水一杯で、むさくるしい街に住んでいる。普通の人は耐えられないだろうが、顔回は質素な生活の楽しみを変えないでいる。回は、何と立派な人物であろうか』。