からを破る体験の大切さ



『教えるな』(戸田忠雄 NHK出版新書)という大胆なタイトルをつけている。ショッキングなタイトルだが、真意はそんな安直なことではない。この本は2011年に出た。著者は学校教員、学習塾、教育NPO法人などさまざまな現場を経験して、教育政策・学校論を提言している人物である。教師は一度読んだほうがいい。
著者はぼくと同世代なので、共通体験が多い。本のなかに、おもしろいエピソードを載せている。子どものころの思い出である。


小学3年生のとき、緊張のあまり教室でウンコをもらした子がいた。授業中に、「くさい、くさい」と鼻をつまむ同級生がいて、見ると一人の男の子が下を向いてもじもじしている。教室が騒がしくなり、先生が「どうした?」と声をかけて、「おう、くせえなあ」と大きな声を上げた。男の子はますますもじもじしている。すると先生がこう言った。
「先生も最近は、食い物が代用食ばかりのせいか、腹をくだして、この間もピーピーでパンツにもらしてしまった。」
そう言うと先生は男の子を職員室かどこかへ連れて行き、体を拭いてやり、代わりの何かをはかせてやった。
その翌日、教室で先生が開口一番、
「家でウンコをしてきた者、手を挙げろ」
と言った。みんなは下を向いていた。
「先生はしてきたが、やはり今日もピーピーに近かった。」
と言いながら先生は自分で手を挙げ、みんなを見回す。そうするとウンコをしてきた子らがぽつりぽつりと手を挙げだした。数はかなりのものになった。
「今日からしばらく、ウンコしてきたか調べることにする。ただし、ムリに家でしてこいということではないぞ、学校でしてもよい。授業中したくなったら、手を挙げて『先生、ウンコ』と言え。便所に自由に行ってよい。むろん、小便でもかまわないぞ。」
先生はそう言ってくれた。そうしたらひとりの生徒が、「ウンコなんて言えないよ」と小さい声で言ったので、先生がこう言った。
「それなら左手を挙げろ。それならいいだろう。」
それから質問は右手、ウンチは左手になった。


こういうエピソードを紹介してから、こう書いている。
 「私は国民学校時代(戦争末期と戦後の一時期、小学校を国民学校と名称を変えていた)から、胃腸が弱いうえ、当時は食べ物事情も悪いので下痢気味でした。毎日、ウンチをどこでするか大問題だったので、この先生の思いやりには助かりました。
 昨今、とくに小中学校では、学校のトイレで大きいほうができないので便秘になったり、ひどい場合は、そのために不登校気味になる子もいると聞きます。休み時間が五分しかなかったり、和式トイレに慣れていないなど理由はいろいろのようですが、‥‥。
 国民学校時代にも、『組織のしがらみ』よりも、子ども本位に考えていたステキな先生がいたのです。」

軍隊式の一斉教育がまだ幅を利かせていた学校に、こういう先生がいたということは、子どもにとって救いだったと思う。学校のトイレで大便をするというのは、子どもにとっては勇気のいることである。ぼくが中学校で教えていたとき、大便をしたくなった生徒が、休み時間に用をたすと、他の生徒に分かってしまうから、授業が始まる直前の生徒の姿がないときにトイレに走る子がいた。授業には少し遅れるが、そのほうが気が楽だったのである。トイレはそれほど気を使う。クラスの親密度が増してきて、そういう気遣いもしなくてすむようになると、豪胆な子も現れ、
「だれかトイレットペーパー、ちょうだい。」
と言って、へっちゃらでトイレに行く子がいた。そういう子は、集団をしばっているものを破壊する力を発揮し、クラスの宝にもなった。


戸田さんとよく似た体験で、小学校五年生のときにぼくは、友だちの勇気に救われた思いをしたことがある。
戦争が終わってまだ三年目である。
食糧難が家庭生活に影響を及ぼし、子どもたちが学校へもってくる弁当に親は苦労した。朝も夜もカボチャとかサツマイモ、トウモロコシの粉のパン、小麦粉のスイトンとかの代用食であり、米が少ししか食べられない。栄養失調で死んでいく人も出る時代であったから、昼の弁当はなく、運動場で時間をつぶして、ひもじい思いをかみしめるか、家まで走って食べに帰るかしていた。
ある日、転入してきた桑田君が、昼食の時間に、
「明日からサツマイモの弁当にしよや。焼き芋、持ってけえへんか。」
転入してきて三ヶ月ぐらいたっていたかな、桑田君はぼくらのグループ6、7人が輪になっているときにみんなに言った。
「そうしよ、そうしよ。」
救いの舟に乗るような気分だった。みんなは意気揚々と賛成した。サツマイモなら、持ってこられる。みんながサツマイモなら、気を使わなくて済む。隠さずにおおっぴらに食べられる。
みんなは勇気をもらったように元気になった。
ぼくは家に帰って、
「あしたからサツマイモ持っていく。」
と母に告げた。仲間との盟約を守るかのように誇らしげだった。
代用食のサツマイモの焼き芋は、輪切りにしてフライパンで焼いたものだ。翌朝、それを数枚、新聞紙に包んで、雑嚢に入れて持っていった。この雑嚢は、兄と一緒にそれぞれ自分用を自分の手で縫って作ったものだった。古い帆布を使い、ふたの部分は長く伸ばし、肩から提げる帯状のベルトは腰骨辺りに来るように作るのが粋だと思っていた。子どもの世界の流行だった。
昼食の時間が来た。みんなは胸を張ってサツマイモの弁当を広げた。新聞紙に包んだのはぼくだけだったが、イモはみんなイモ、丸ごと焼いたものもいた。
友だちの力というものを感じたのはその時だった。恥ずかしいとか、どう思われるかとか、そういう気持ちを破壊することの痛快さを覚えたのがこのときだった。
からを破る体験は、人間を強くするものである。