温泉館での出来事


湯けむりが湯ぶねの人影をぼかしている。湯から首だけ出している人、浴槽の端に一段、腰かけのようにつくられているところに座っている人、四、五人の姿がうっすら見える。みんな高齢者だ。
ぼくは、湯船の外の一角につくられた木のベンチに座り、のぼせた体をさましていた。
ぼくの隣に、白髪の男性が座っている。彼も体のほてりをしずめている。
午後の三時を回ったころだった。ぼんやり浴槽を見るともなく見ていると、湯から上ってきた、頭のはげた男が、アッと小さな声を上げて近づいてきた。
見ると、隣に座っていた白髪の男性が、ベンチの下に横たわっている。ぼくもまたアッとつぶやいた。近くにいた二人の男性もやってきて、一人がすぐさま浴室のドアから脱衣室に知らせに出た。
「救急車を呼んで。」
もう一人が言う。
脱衣場にはちょうど入浴にやってきた客がいて、上着を脱ぎかけていたが、知らせの男はその人に急変を知らせた。上着を脱ぎかけていた男はまた身体に引っ掛けて温泉館の事務室に走った。
従業員の男がやってくるまでの間、裸のまま横たわっている白髪をぼくは見守り、頭をもたげようとすると、
「起きないで、起きないで、そのまま寝ていましょう。」
と声をかけていた。
見守っているもう一人の男性が、湯桶をもってきた。
「ここに頭を起きましょう。」
プラスチックの湯桶を、白髪の頭の下に入れて枕にした。
温泉館のスタッフが来るのに時間はかからなかった。
白い上っ張りをきた従業員は、
「手を貸してください。」
と言って、もう一人の裸の湯客に白髪の左腕を抱えるように頼んだ。
白髪の男性は両腕を抱えられて脱衣場に担ぎ出され、長いすに座らされた。すでに意識は戻っていた。
そこまで見て、ぼくはまた浴舟に入った。熱い湯と、冷たい水が、二本のパイプからとうとうと注がれている。ぼくは、比較的湯の温度の低い浴槽の端に腰掛けて、腰湯の状態でつかっていた。上半身に汗が吹き出た。
湯から出て体を拭き、浴室から出ると、先ほどの白髪の男性は元気を取りもどし、服を着て洗面台の前に立って髪を整えていた。
「大丈夫ですか。」
声をかけると、
「どうも、どうも、大丈夫です。ご迷惑をかけました。」
男の顔に笑顔があった。
服を着て、脱衣場を出、温泉館の受付の前に来ると、白髪の男性は中にいる先ほどのスタッフと話していた。
「やあ、よかった、よかった。」
ぼくも会話に入った。
「最初私が湯船にいたとき、オトウサンが湯の中を歩いていて、オトウサンちょっとよろめいたんですよ。この人あぶないぞ、大丈夫かなとその時思ったんですよ。」
ぼくの口から、とっさにオトウサンという言葉が出た。彼はぼくよりもたぶん年上、日ごろ家でもそう呼ばれてきただろうから、親しみを込めてオトウサンと表現したのだが、オジイサンがオジイサンにオジイサンと呼ぶこともできないという気持ちもあって、オトウサンだ。
「私がよろめいたのを見ておられたんですか。ハッハッハ。」
白髪の男性はうれしそうに笑う。
「これが家の風呂だったら、一人で倒れていても分からないですよ。」
と、ぼくが言うと受付のスタッフが声をはさんだ。
「一人暮らしだったらそうですね。温泉館は人が多いでね。ここの湯は熱めにしてあるんですよ。熱めをお客さん好むんです。常連のお客さんは、湯に入ったり出たりして、長くつかることがないようにしていますね。服を脱いだとき血圧が上り、湯につかっていると血圧が下がります。だから気をつけねばならんです。温泉は体の芯から温まりますから、温泉出た後も体がポカポカして温かいですよ。」
「湯船の中でも温度の低いところがありますね。ぼくはそこにつかります。」
「そうそう、ここの湯船は広いですから温度の低いところでつかるといいですね。」
「ま、よかった。よかった。」
「いやいや、ありがとうございました。」
白髪の男性は、またハッハッハッハと天井向いて笑った。
一人暮らしかな、たぶん家族がいるだろうよ、と思いながら外に出た。
帰り道、雨がポロポロ降っていたが、途中からみぞれになり、夕方から雪になった。