ネパールで出会った人

 26年前のことだが、ネパール山岳地帯の森林が荒廃し砂漠化が進んでいた。急ピッチで森がなくなっており、大雨が降れば洪水が起こる。被害はバングラディッシュにまで及んだ。少しでも歯止めをかけねばと、日本のNGO団体「アジア協会アジア友の会」はネパールに植林をしたり、学校をつくったりする運動を行なっていた。五月の連休をはさんで10日間ほど、植林ツアーをするという計画が組まれていることを知って、有給休暇を加えてぼくはそれに参加することにした。ところが直前に、ネパールとインドの関係が悪化して、ネパールへの石油輸入が停止され、活動が危ぶまれる事態に至った。ツアーは縮小、計画は再検討となった。が、それでもぼくは単独行動でネパールに入った。
 カトマンズに入って、1泊1000円以内の格安のゲストハウスに宿をとり、植林活動の状況をつかもうと、現地の連絡所に電話を入れると、一人の白髪の老人が現れた。日本語は通ぜず、植林チームについての情報はよく分からない。
 仕方がない、せっかく来たのだから山を歩いてみよう、と街のなかで見つけたガイドの店に行き、ヒマラヤを展望するトレッキングを申し込んだ。若いガイドだった。計画は5、6日間の行程で、もう一人参加する人がいた。その人はアメリカ人の女性とのことだった。
 こうしてガイドの案内でトレッキングを始めた。ポーターが3人ついた。ポーターはぼく用のテント、アメリカ婦人用のテント、そしてガイド・ポーターのテントと、それぞれ設営し、食事を作ってくれた。ガイド、婦人、ぼくの3人は一緒に食事をとった。会話はすべて英語だった。ガイドは英語がうまかった。
 ヒマラヤを眺望しながら縦走していくコースで、エベレストも見えるとガイドは言ったが、お任せコースにはものたりない思いが強かった。山の観察はできた。木々が切られて森が育たなくなっている状況は、住民が燃料にするためだった。
 2日目、尾根を歩いていて疑問が湧いてきた。こんなトレッキングをしていてどうなる? こんなトレッキングをするためにネパールに来たのか。その夜、食事の時、ガイドとアメリカ婦人と話し合うことにした。
 ぼくはつたない英語でとちとちと話す。木を植えに来た、このままトレッキングを続けていくのを辞める、そう話した途端のこと、アメリカご婦人の表情がぱっと変った。それまではのんびり山を楽しみに来た日本人というイメージだったのが違った、彼女の表情はきびしく真剣になった。彼女は、自分のことを話した。アフガンで医療援助をしてきて、任務を終えてこれからアメリカに帰る。故郷には夫も子どももいる。国境なき医師団のような、そういう活動をしてきて、帰国の途次にヒマラヤを見ていこうと考えたということだった。この女性の名前はすっかり忘れてしまった。このときの彼女の表情の変化は忘れることができない。ガイドは、途中リタイヤではトレッキングの費用の残りを返還することはできないと言った。ぼくはもちろんそれは承知していた。その時彼女は、「ミスター吉田はそんなことを請求しない」とガイドに向かって言い、志のために行動することを高く評価して、明日の朝お別れしようと、言ったのだった。
 翌朝、ぼくはそこで一行と別れた。遠くに白いヒマラヤの峰々が連なっていた。そこは峠で、峠の小屋もあった。若者が一人、早足で峠を越えて下山していった。マカルーから下りてきたという。ぼくはその後から、同じ下山コースを下っていった。マカルーの男は飛ぶように下っていった。
 カトマンズにもどって、もう一度アジア友の会の動きを探ると、ポカラにチームがいるということが分かった。そこで空路、ポカラに向かった。ポカラの空港で客引きに来ていた青年のゲストハウスに泊まって調べると、探していた一行の居場所が分かった。すぐ近くのホテルだった。そうして植林チームに合流することができたのだったが、植林事業は行なわれていなかった。
 ポカラは、アンナプルナとマチャペチャリが圧倒的な迫力で空を占めていた。植林活動はストップ、そこでぼくはまた、一人でアンナプルナ方面への山旅をすることになったのだった。

 ポカラの山旅を終え、日本に帰るために今度はぎゅう詰めの長距離バスでカトマンズにもどったときは、ろくに食べず、おまけに下痢気味になったためにひどい空腹状態だった。何か食べなくてはと、「さくら」という日本料理店を見つけて入ると、大きな庭園のあるレストランで、日本食がおいしかった。日本人客がもう一人いた。その男性も単独行で五月の連休を利用してトレッキングに来たということだった。ビールを飲みながら、ぼくらはすっかり親しくなった。彼も、往復格安航空券を使っていて、明日の帰り便はタイ航空でぼくと同じだった。格安航空券は変更ができない。乗り遅れたらそれで終わり。だから遅れないように空港で会いましょうと約束し、彼と別れてゲストハウスに戻った。
 翌日、時間通り空港に行った。ところが、彼の姿が見えない。探したが見当たらない。彼はとうとう来なかった。