新たな撤退戦略


みぞれが雪に変わった。朝の散歩で望月さんに出会う。
望月さんはチャコとチコを連れている。ぼくのランは小さいチコがお気に入りだ。
チコのところに飛んでいく。
望月さんに出会うと、ぼくはいつも少しおしゃべりをする。
今年の冬は寒かった。
「昔はもっと寒かっただよ。私がこちらに嫁に来たときはねえ。」
家のつくりも、暖房設備も、昔は寒かった。
幼いころのしもやけは、ひどかった。
「このあたりは、雑木林だったねえ。それが開墾されて。全部田んぼになったでねえ。」
「ここから山手のほうは、満州から引き上げてきた開拓民が開墾したところですねえ。」
「私は親に連れられて満州に渡っただよ。」
「へえ? 満蒙開拓団だったのですか?」
信州からは満蒙開拓に、たくさん農民が満州へ渡った。
「親がよく言っていたよ。満州の夕焼けはきれいだったとね。私は小さくてよく覚えていないけれど。」
王道楽土や五族協和、夢の別天地の名のもと、日本の国策で満州に渡った27万人とも31万人とも言われる開拓団、
日本人は原住民にとっては侵略してきた人々だった。
父と母は開拓に励んだ。
ある日、赤紙が来た。望月さんの父は軍隊に召集され、ソ満国境へ送られた。
1945年8月9日、ソ連軍が参戦し怒涛のように「満州」に押し寄せた。日本の開拓民は悲惨な運命をたどる。
「私の家にもソ連兵が土足で入ってきてねえ。母親は隠れていたけど、押入れの中など開けてねえ。」
母子の逃避行が始まる。屋根のない無蓋車に乗って満州の平原を逃げ延び、そして母子は日本へ帰ることができた。
日本に帰国できたのは11万人あまり、中国残留孤児など多くの悲劇が生まれた。
彼女の父はシベリアに抑留され、5年が経って、無事に日本に帰ってきた。
「私は顔も覚えていなかったよ。父が帰ってきた時は誰か分からず、障子に穴をあけて、そこからのぞいていただ。私は小学校5年生だったね。」
望月さんに、こんな過去があったなんて思いもかけないことだった。


日本の敗戦は、総撤退だった。そして国土は焦土となった。
そして敗戦から67年、
新たな撤退に日本は直面している。
東日本大震災津波原発事故は、次の撤退を突きつけている。
撤退して、別の道を模索しなければならない。
さらにこれから50年後、日本の人口は8000万人になるという予測が出ている。
5000万人の減少。
都会と地方とでは減少は異なろうが、今より6割に減少することが必至とあれば、日本のこれからの道は、撤退戦略の道だ。
二度目の大撤退、
どのような針路に舵を切っていくべきか。
新しい思想、哲学、新しい文明を生み出さねばならない。
3.11はその時の到来を示しているにもかかわらず、政治はなんと旧態依然としていることだろう。