オランダの知と実践



 小学生のころに読んだ話で、心に残っているものがある。
 そのひとつに、スイスの教育家、ペスタロッチの話があった。ペスタロッチが街の広場を歩いている。ふと彼は足を止めた。何かが落ちている。彼はかがんで、それを手に拾い、コートのポケットに入れた。そのとき、ペスタロッチの行動を見ている人がいた。警察官だった。警察官はペスタロッチに近づいていって聞いた。
「あなたは何を拾ったのか。見せなさい。」
ペスタロッチはポケットに手を突っ込んで、つまみだしたものを警察官に見せた。ガラスのかけらだった。
「子どもたちが足をけがするといけませんから。」
ペスタロッチは、孤児たちの教育に取り組んでいた。はだしの子どもたちがけがをしないように、ガラスのかけらを拾っていたのだった。
 少年雑誌に載っていたその話には、挿絵があり、コートを着たペスタロッチと警官の絵は今も覚えている。
 もうひとつ、オランダの少年の話がある。
 オランダは海面より低い土地にあり、堤防で高潮や川の洪水を防いでいる。一人の少年が堤防の一箇所から水がちょろちょろ漏れてきているのを見つけた。これはあぶない、少年は自分の指を水の漏れてくる穴にさしこんで、流出を防ごうとした。水は止まった。しかし、人が誰もいない。夜になっても誰も来てくれない。とうとう少年は一晩中指をさしこんだまま朝を迎えた。明け方、苦しんでいる少年を大人たちが見つけた。堤防は守られた。
 小さな穴からの水の流出は、次第に穴を広げていき、最後には決壊にいたる。その最初の危機を防ぐことの重要さを少年は知っていて行動に移したのだった。
 小さな英雄は、日本の少年読者にも感動を与えた。
 ドストエフスキーが言う、幼時や少年の頃に聞いたり読んだりした話が、人の生涯に影響を与えるというのは、こういう話が心に残り続けていることからもうなずける。
 このオランダの話は、実はアメリカ人の作家の創作だということを最近、紺野登の著書で知った。
「幸せな小国オランダの智慧 災害にも負けないイノベーション社会」(紺野登 PHP新書)は、あの大きな風車、海抜ゼロメーターの国と、日本とを比較しながら、日本の対極にあるような国民性と社会について詳細に分析している。
 オランダでは日本よりもはるかに国民の幸福度が高い。子どもの幸福度は世界で第一位。1000年にわたって国民総がかりで洪水と闘ってきた。ヨーロッパでは屈指の低失業率、ワークシェアリングも進んでいる。短時間労働の正規就業化、同一労働・同一待遇の「オランダモデル」実現。自殺率はたいへん低い。安楽死もその人の状態によっては認めている。100人いれば、100の政党があるかのような、それぞれが自分の考えを持っていて、自由闊達に討論して問題解決に努力する。
 ざっとあげてもこんな話である。


「安心こそ安全の敵」という項でこんなことを書いている。
<オランダは国土の四分の一が海面より低い。彼らは堤防を築き、排水路をつくって水の脅威と闘いながら湖や沼を干拓地に変え、国土を拡げてきた。その歴史が一人ひとりに染み渡っている。オランダ人は自分たちで国をつくり、さまざまな災害や危機を乗り越えてきた歴史がある。絶えざる水との闘い、築堤、干拓。オランダ人は北海の荒波にあらがって旅をする船乗りにたとえられる。低く湿った土地で水につかってもがきながら、黙々と国土を生み出してきた。そこでは科学的態度が培われる。先祖の言うことを聞かなかったからまた災害に見舞われた、などとは考えないわけだ。
 一方、安全神話憲法のようになっていた日本。『安全』を求めてシステムを精緻化するあまり、かえってそのシステムがもろくなってしまうことがある。『安全』をスローガンに技術の効率性を高められるだけ高め、逆に硬直した(創造性の余地を失った)状態にあったのだ。『憲法』だからだれも反対できない。これが想定値だといえば、それでまかり通る。想定内なら完璧に動く仕組み。はたしてこれは安全なのか。安心こそ安全の敵である。
 ぼくらがいまオランダから学べるのは、『災害に強い知的国家』の本質とは何かである。その基本単位は、社会や過去の仕組みに単純に依存しない『個』と、その相互の関係性、対話力だと思う。>


「対話のための対話ではなく生きるための対話」の項では、次のように書いている。
<合理性への志向が強いオランダ人は、通常は対立関係であっても、コトの重要性、特殊性が常時を超えると、協力し合うことに抵抗がないようだ。成熟した、災害に強いコモンセンス、『知的弾力性』があるといえるだろう。逆に日本は、協力するパワーはあるのに、すぐに自分の敵か味方かにこだわる側面がある。だから、いざという緊急事態になっても、その関係内で人材を選定するので、迅速で有効な解決にいたらないことが多いのではないか。どうも『オランダ的思考』というものが存在していて、ぼくらもそのあたりから学ぶ必要があるようだ。>


「知識によって世界的な経済価値を生み出す」の項は、
<現在オランダは、総合的な水のイノベーションを国家レベルで推進している。オランダ経済の基本的モデルは、自身の持つ問題を解決し、協力しつつ知を共有し、それを海外に提供して経済価値を生み出すことにある。この方法を数世紀のあいだ実践してきた。なかでも水の管理は重要な領域であった。日本は明治以来、水管理の大テーマにオランダ人を招き、利根川、江戸川、淀川、木曽川などに彼らの知と技術を活かしてきた。農業も水も、オランダは社会的必要性という本質からぶれずに、イノベーションは生み出されている。>


 「イノベーション」は、刷新、革新、新機軸のこと。固定概念、常識観念にとらわれず、頑固な頭をやわらかくして自立し、自分の頭で考え、人の話に耳を傾けて、人の異論を愉快がり、空を飛ぶ鳥のように、自由な心で、智慧を生み出す。それができるか、日本は今そこにぶちあたっている。