3.11脱原発のデモに行ってきた


昼になって少し暖かいかなと思ったから、軽装にナップザックで出かけた。
「NO原発」の集会は、松本城公園で開かれる。城堀に鯉が泳ぎ、鴨が十数羽浮かんでいるのを見ながら会場に着いたら、気温がぐぐっと下がってきているのが分かり、デモ行進までに体が冷えそうだと、集まって来ている人たちのなかをうろうろ動いたが暖かくならなかった。
久しぶりに感じる集会の雰囲気だ。赤や黄色ののぼり、旗、ゼッケン、プラカード、フウセン、人びとのざわめき、ぐるりと見渡したところ、1000人ぐらいかなと思ったが、デモ行進にうつった隊列の長さは、2000人ほどになっていたろうか。

集会の途中、昨年3月11日の2時46分に地震が起こったその時刻に、参加者全員で黙祷を行なった。この時刻に鎮魂の鐘をつこうと日本仏教会が呼びかけていたから、シーンと静まり返った会場まで近くの寺の梵鐘が聞えてくるかと耳を澄ましていたが、どこからもそれらしい音は聞こえなかった。
一分間の黙祷の後、周囲を見渡すと、社民党共産党みどりの党原水禁新日本婦人の会の旗があり、労組、市民団体、病院、多様な団体の文字が見え、この集会が特定の組織のものではない、大衆的なものであることが分かった。歴史的に対立していた関係も、ここで大同団結している。喜ばしいことだ。欧米の人の姿も何人も見えた。
昔、「声なき声の会」というのがあったが、誰でも入れる、参加できるあのときのデモンストレーションに似た、この多様な人の群れに、ぼくは安らぎと希望を感じる。
近くに立っていた一人の紳士が、ぼくのほうを見て、視線が合うと近づいてきた。
「署名をやっていただけませんか。」
手に持った数枚の広げた紙を見ると、大江健三郎の名前があった。
「この人たちの署名運動です。私は高校の同窓会の仲間と会をつくって署名運動をしています。」
署名簿に出身高校の同窓生でつくった会の名があった。
紳士は、原発を停め、廃炉にし、新たにつくらないという主旨を丁寧に説明してくれた。
ぼくは快く引き受けて書いた。


会場の上空を、堀の鴨の群れが旋回している。
集会が終わってデモ行進に移る。松本城から松本駅近くまで左側の車道をシュプレヒコールをしながら行く。
歩道に、日章旗旭日旗旧日本海軍旗)に喪章をつけたのを振る人がいた。デモをしている人たちは好奇の眼を向けたが、右よりの思想の持ち主も、震災被害者を悼み、「脱原発」を願う心は同じであり、大きな旗を振ることで連帯を表していたのだった。
デモの中に、おもしろおかしく仮想し、楽器を演奏しながら行く群れがあった。
ギターを抱えた地球宿の望三郎君に、子ども冒険クラブの大浜さん夫婦の姿もあった。

ゆっくりペースのデモで、すっかり冷えていた体は温かくならない。
デモの後、松本中央図書館に入って、暖房のなかで体を温めた。山の本のコーナーに置かれた椅子に座り、一冊の山の本を読んでいたら、うとうとと居眠りをしてしまった。
夜にメールが来ていた。   

          ☆
    
 本日は「サラバ原発 3・11長野県大行進」に、ご参加とご協力をいただき、まことにありがとうございました。お疲れさまでした。
 松本会場は、約2,000名のデモ行進でした。長野は約1,000名、佐久は800名、飯田は400、伊那350など、県内総勢6000名近い参加であったと思われます。長野県における今日の3・11は、歴史的に見ても大きな意義のある日になりました。
 原水禁原水協の皆さん、それに新参加の市民が、脱原発を叫んで一堂に会して集会し、デモをすることは、一年前は考えられなかったことです。負の契機からとはいえ、脱原発に向って大きなうねりを起こせたことは画期的です。過大なる評価と言われようとも、このことを各団体・個人は強く意識して欲しいと思います。
 脱原発実現には、まだ、”始めの一歩”にすぎません。これからです。
 一人一人は微力ではあっても、決して無力ではありません。微力を寄せ合って巨大な力とし、脱原発が我が国の方針になるまでやりぬきましょう。当面は再稼働阻止が課題です。
 「サラバ原発・変えよう暮らし方」の会では、3/10に、県内の77自治体、全ての市町村長、同議長にあてて、1・28大会宣言とともに、脱原発を訴える手紙を出しました。姿勢を問うアンケートハガキも同封しました。
 さらに近日中に、県議会議員全58名と、県選出衆参国会議員13名に発送します。
 そしてさらに総理大臣、経産大臣ほかにも出します。
 いずれも、返信があるかわかりませんが、あり次第、公表していきます。