今の日本を考えるために50年前を振り返る <3>

 1968年8月、「反戦と変革に関する国際会議」で、鶴見俊輔が意見を述べた。
「それぞれの社会で、社会成立の契約を作り直し、それらの連合によって、人類の新しい社会契約を実現すべきです。国家によってあやつられている多数者に譲ることなく、少数者が確信を持って世界的規模での助け合いを、個人と個人、集団と集団との間で進めていく。その方法を今後起こりうるさまざまの可能性を思い浮かべながら、議論し、工夫していきたいです。」
 「市民」は「市民」であり、「べ平連」は「市民運動」であった。そしてその基本はデモ行進だった。そこに加わる人は、ただの市民だった。1970年には、日米安保条約の廃止を求めて、べ平連は「毎日デモ」を実施した。それに対して、「いくら人が集まっても何ができる? たかだか壮大なゼロではないか」と言われもした。
 小田実、「独裁者に対する反対語は市民だ。」
 市民が独裁に対して立ちあがるとき、弾圧が起こる。1976年、周恩来を追悼するために集まった民衆を当局が弾圧した。第一次天安門事件である。1989年、胡耀邦を追悼する市民の非暴力の運動を軍が制圧した。第二次天安門事件である。イランでは1979年、独裁専制体制に対して、非暴力の市民が連日デモ行進をして倒した。チェコスロバキアでは、1968年、自由化を求める市民の運動が「プラハの春」になった。が、ソ連によって弾圧された。1980年代、ポーランドでは労働者の運動「連帯」が曲折を経て体制を変革した。
 そして日本では、1960年安保のときに、小林トミたち市民がつくった「声なき声の会」がべ平連につながり、それが1965年、ベトナム戦争に反対するべ平連の全国展開になっていった。脱走兵支援は1968年から始まる。
 べ平連の吉川勇一が語る。
「ふつうの市民が、自分のできることをベトナム平和のためにそれぞれでやっていく。たしかに脱走兵を援助し、それを匿うというのは、ふつうならば、ふつうの市民がやる、ふつうの運動ではないのだが、そうした『異常な』ことをやったからといって、べ平連が変わったのではない。ふつうの市民がそうしたことをやらねばならないほど、私たち市民の生活の中に、異常なベトナム戦争が入り込んでいるのだ。」
 べ平連は、米軍兵士にむけたビラをつくり、1966年12月10日、横須賀の米兵に配布した。

 「われわれは今とは違った状況のもとで、あなたたちとお会いできたらと、どんなに望んでいることだろう。
 1931年にわれわれの政府は、『満州事変』の名のもとに中国に対して宣戦布告なき戦争を始めた。その時、これが第二次大戦の始まりであると考えた人はほとんどいなかった。今、1966年に、われわれはアジアにおいて、第三次世界大戦の始まりになり得るかもしれない、もう一つの宣戦布告なき戦争が行なわれていると感じとっている。」

 そう書いた後に、米兵のできることとして、五点をあげた。

1、上官や大統領に、戦争反対の手紙を書くこと。
2、兵舎のなかで集会を開き、また大衆的なデモに参加すること。
3、サボタージュをすること。
4、脱走すること。
5、良心的兵役拒否をすること。

 そして、このビラを兵士たちに手渡した。
 四人の脱走兵が出たのは、1967年10月だった。べ平連は、JATEC(反戦アメリカ軍脱走兵援助日本技術委員会)を組織し、脱走兵たちを隠密裏に匿い、国外に送り出した。
 そのことのために、どのような隠された困苦があったことだろう。脱走兵士たちを、世間に知られず、日本の官憲、アメリカ軍の組織に知られないように国内のどこかに匿わねばならなかった。そして彼らを受け入れてくれる国を見つけねばならなかった。すべては隠密だった。小田実は海外の国々を回って、ひそかに受け入れてくれるところを探しに行ったのだった。 

 べ平連が活動し、空母イントレビットから脱走兵が出た時代、べ平連とは別に、市民・労働者・文化団体、学生もベトナム反戦を闘っていた。
 ・佐藤首相が南ベトナム訪問に出発するとき、羽田空港反戦青年委員会が阻止デモを行ない、機動隊と衝突して京大生が死亡。
 ・アメリカ30都市でベトナム戦争反対デモ。
 ・日本の44都道府県で反戦デモ。
 ・世界各地で反戦集会。
 ・沖縄で、沖縄即時無条件返還要求国民集会に10万人。
 ・由比忠之進、首相官邸前で焼身自殺。
 日本政府が行なった北ベトナム爆撃支持に抗議して由比忠之進は焼身自殺した。73歳のエスペランチストであり平和運動家だった。彼は佐藤首相あての遺言書を残した。

 「私は忠誠心と愛国心日露戦争で学んだ。今アメリカは、日本が第二次大戦中に中国で犯した過ちをベトナムで繰り返している。この遺書は、ベトナム民衆の苦しみが一日も早く解消されることを心から望んでしたためた。佐藤首相は、アメリカ大統領が北爆を止めて、和平交渉を開始するように要請していただきたい。」

 由比忠之進の焼身自殺は小田の心に重くのしかかり、ベトナム戦争は大きく彼に近づいてきた。この翌日、べ平連は、イントレピッドの四人のアメリカ兵の脱走を発表した。イントレピッドの四人は、硝煙の匂いと共にべ平連のところにやってきた。

 清水徹雄の「米軍脱走」問題は、「安保条約体制」と「憲法」の矛盾を鋭く表した。ベトナム戦争というまぎれもない戦争のなかでの「安保」は、「戦争放棄」をうたいあげた「憲法」と対立する。そして、ベトナム人の側から見れば、日米安保のなかの日本人は加害者だった。清水氏という日本人は、日本人でありながら「海外派兵」をやってのけていた。それから年月を経て、自衛隊の「海外派遣」という「派兵」に結びついていく。
 小田実は、「日本人『脱走兵』が明確にする今日的問題」という論の中で、予感する事態を架空の「声明」によって表現した。

 「私は、平和協力隊=多国籍軍兵士として中東で戦った日本人です。
 私は日本に帰休したこの機会に、平和協力隊=多国籍軍を離脱し、日本にとどまって、平和な市民としてくらす決意をかためました。‥‥(後は清水徹雄の声明とほぼ同じ)」

 しかし、この声明を書いた青年の場合と、清水徹雄の場合とは、決定的に違う。これから起こることは、予測のつかない不幸なものとなる。それは、清水氏がたてこもろうとした「平和憲法」の家は、この青年の時にはすでに名前はあっても実質が存在していないということである。

 日本の今、故小田実の予言通りに進んでいるように思える。安倍首相は、「ならずもの国家」への恐怖をあおり、「制裁」を声高に叫ぶ。その言葉の奥に感じるものは、戦争への覚悟を持てと、国民に求める彼の隠れた声である。国を守るために憲法を変え、軍備を拡充し、戦争に備えよと。
 肝心かなめの市民の意識が問われようとしている。