「雪降る田んぼの遺体の話」

        

  
 80歳になるTさんがこんな話をした。
 「私の近所のねえ、田んぼの中に、なんか変なものがあってね。朝、雪が降っていただ。小学生が学校へ行くときに、それを見て、あれ、変なものがある、何かな、そう思いながらそのまま学校へ行っただよ。午後、学校から子どもたちが帰ってきたら、まだ田んぼにそれがあるで、子どもたちが、何だろうとのぞきに行って見ただよ。それが人だった。行方が分からなくなっていた人だったんだ。同じ村の高齢者だよ。」
 遺体で見つかったその人は、前日から外へ出て行ったまま帰ってこず、警察に届けが出ていた。翌朝、子どもたちが発見して警察に連絡した。凍死体には雪が降り積もっていた。
 「私の住んでいる集落は、高齢者が多く、最近いろいろなことが次々起こっているだ。柿の木に上って落ちて死んだ人もいるでね。」
 農作業もできない高齢者の農家は、田んぼを売るしかない。


 「安曇野市を考える市民ネットワーク」設立に向けての準備会は、夜7時から9時過ぎまで10数人が、週に一度集まって議論してきた。私たちの住んでいる市の形、市民の状態、行政、議会のあり方について、フリーに意見交換をした。
 昨年は新庁舎建設は住民の投票によって決めようと市議会に条例制定を求める運動をしたが、議会は否決した。市長・市議会の論理とやり方には納得できない。運動は挫折したが、この市民運動はこれで終わりにしていいのか、改めてもう一度我々の運動の主旨・目的を画きなおし、新たな市民運動をつくろうではないか。そこから始まった運動展開だった。
 

 議論は白熱化した。この会がどういう性格のものにしていくのか、それがテーマになった。
 この会は自由な会で、趣旨に賛同して志を持つものは誰でも参加できるものにしたい。市にはいろんな市民の運動があり、暮らしを侵害される立場に置かれてきた市民の運動もある。
 最も積極的に苦しい闘いをしてきたのが、業者と行政を相手にした「三郷北小倉の産業廃棄物処理場問題」である。運動に7年間かかわってこられた人たちが参加してくれて、「外からのまなざし」と「これまでの体験」から「運動体のあり方について」厳しく意見を出してくれた。
 「市民の会」にするか「市民ネットワーク」にするか、呼称についても議論した。孤立し、無視され、少数で低迷している市民運動の実態があるならば、それらの人々もみんなで手をつなぎあえるものがいいと、「市民ネットワーク」を呼称にしたのだが、連合組織とも言えず、やはり市民個人の集まりになるだろうと、そこについての描き方、理解が、集まってきている人それぞれ異なるものがあった。
 多くの市民の参加を期待するなら、幅広い認知と信頼を受ける会に育てたい。三郷の産廃施設の運動は、内部での徹底した討論によって、過去のいきさつや、支持政党の違いなどを乗り越え、目的で一つになって村ぐるみの闘いをしている。それでも、市の体制を破壊する少数分子の扇動であるかのようなレッテルを貼るものがいた。過去の歴史においても、権力とそれに同調するものたちの常套手段は、「多数の市民」から運動を分断孤立化させ、自分たちに都合の悪い運動を壊滅させることにあった。
 この運動は、「自治の主役は住民」の精神を軸に、みんなが安らかに暮らせる美しい安曇野をつくる市民の会にしていきたい。参加の意志を持つ市民個人が自発的に入会し、活動するところにしていこうではないか。「組織」というより「場」、「市民の寄り合い所」と言えるかもしれない。
 「お助け宿」のような役割、「駆け込み寺」のような場として、市民同士の支援活動も考えられる。
 一人ひとり対等な市民が、情報を集め真実を探り、必要と判断されるときに、行政・市議会をチェックし、政策への提言も行なう。
 市民へは公正で適切な情報を発信する。
 そしてよりよき市政実現にむけて行動する。行動する場が民主主義実践の場だ。
 いかなる権力・圧力にも、政党・会派にも、支配されず左右されず、独立した自由な会にしていこう。
 議論を重ねたが、具体的なことは、今後の活動の過程から生まれてくるだろう。
 運動は変化するもの、今後の状況から新たなものが生まれる。
 人が集いたくなる場、そこへ行けば知恵がわいていくる、勇気がわいてくる、そんな会になれば輪も広がる。
 

 市民の状況、今起こっていること、そのことにも話が及んだとき、Tさんの「雪降る田んぼの遺体の話」になったのだった。
 26日午後、設立集会は、碌山美術館の近くにある研成ホールで開く。