「神の見えざる手」と人知


ランと朝の散歩をしていると、新しい自動販売機が道端に設置されているのに気づいた。土木工事業者の資材置き場のは入り口だ。周囲は畑、こんなところに設置して、道行く人が買っていくのだろうか、と思うのだが。小一時間のコースの途中に5箇所のドリンクの自販機だ。農家の前に設置してあるのもある。
自販機は、赤と黄色の目立つ色をして、およそ田園地帯に似つかわしくない。景観を壊す代物なのに、いっこうに設置は減らず、増えるばかりだ。全国の膨大な数の自販機は、昼も夜も商品を暖めたり冷やしたりして、その待機電力は莫大なものだと思う。
石原都知事福島原発事故後の電力問題に関連して、「こんな国がどこにある。」と批判したのも当たっている。
いつでもどこでも欲しいときに買える便利さと、設置者や業者の利益とが、このようなものを地方にまで行き渡らせた。
山村や田園の美は、自然と調和するもので保たれる。ところがこの自販機と、道路の辻に立てられる交通安全ののぼりと、商店の看板とのぼりは、目立つことをねらうから、赤と黄色が基軸になる。一つの店にけばけばしい看板とのぼりが数十本はためいているところもある。これが醜悪だと感じないのが不思議だと思うのだが、景観の美を意識する人間には違和感があるが、便利さと利潤だけを追求する人には、特に違和感がないのだろう。


散歩から帰ってきて、新聞に目を通す。
あのとき、フクシマの事故はもっと最悪の事態に陥っていた可能性があり、もしそうなっていたら、首都圏三千万人が避難しなければならなくなっていただろう。そこまで最悪な事態に至らなかったのは「幸運に恵まれたからだ」と、朝日の論説委員・吉田文彦が当時の内閣官房参与の田坂広志の論を引いて書いている。自分たちの手を超えた何かの要因が首都圏まで強度の放射能汚染にまきこむ最悪事態を防いだ。「見えざる手」が働いたのだと。
アメリカとソ連が核戦争寸前まで行ったあのキューバ危機が回避でき、核戦争勃発を避けえたのも、ロバート・マクナマラの論は「幸運のたまもの」だった。ソ連アメリカも、本当の危機の度合いを知らないまま、人知が及ばないものに救われた。「神の見えざる手」。
要するに危機の本当の深刻さは、行政のトップにいる人も、軍の幹部も、分かっていなかった。にもかかわらず破滅への道におちいることを免れた。
冷戦終結後、キューバ危機当時に意思決定にかかわったアメリカ、ソ連キューバのトップたちが、一堂に会して検証作業を行なった結果が、事実はもっと深刻だったということが明らかになった。核がある限りそれが抑止力となって攻撃を防ぐことが可能だという「核抑止論信仰」の裏側に破滅への道が開かれている。
「神の手」と表現したくなるもの。何かがあって回避にいたった、その何かとは何か。
過去の世界大戦も、ヒロシマナガサキも、回避できる何かがあったのに、その何かを見つけること考えることをしてこなかった。


アメリカのプリンストン大学教授のアンマリー・スローターが、「二台の車が全速力でまっすぐ相手に向かって突き進み、一方がおじけづいてハンドルを切るか、二台が衝突して炎上するかどちらか」という「チキンレース」のたとえを引いて、イランの問題を考察している。「そろそろ第三者が仲介し、イランの面目を保てるような解決策をうながすべきときがきた」と。「すでに一触即発で、暴力の渦まく地域、世界の原油価格を左右する地域に、核兵器やその部材、核物質が存在するというのはぞっとするようなシナリオだ。」
そこでアンマリーは、鍵を握るのはトルコとブラジルだという。
「合意に向けて相手に充分な余地を与えようという政治的な意思があれば創造的な解決策を見つけることができる。それでもなお、外交官たちは、屈辱を受けるくらいなら戦争したほうがましな場合があることを知っている。だからこそ面目を保つことは軍事的威嚇と同じくらい重要なことであり、ひいては他国が仲介して、両者が正面衝突を避けるのに必要な余地を与えるべきだ。」
「神の手」のような人知をさぐりだし、実行に移すことがきるかどうか。
ぶつかれば互いに滅びる、世界もまた危険に陥る。ならばぶつかることをやめようと人知をつくす。ところが人間はやっかいな動物で、屈辱とか、面子・面目とか、憎しみ、怒りなどの感情に左右される。そんなもので危機を回避できないでいるとしたら実にばかげたことなんだが、人間の性を考えた危機回避の方法を見つけ出すことだ。
徹底検証の能力を高めあらゆる角度から人知を尽くすこと、それを怠ってはならない。

日本も仲介に行くべきだ。世界の阪本龍馬、出でよ。
「脱藩浪人」のほうがいいかもしれない。


今日はいい天気になった。空青く、山は白く輝いている。