永山則夫とドストエフスキー



 永山則夫は、1968年69年に、連続ピストル射殺事件を引き起こした元死刑囚である。
永山は、逮捕から死刑執行まで、獄中で創作活動を続けた。彼の小説は新日本文学賞を受賞している。
北海道網走番外地に生まれたが、家庭は崩壊状態。永山が5歳のときに、母親は実家に逃げ帰ってしまう。4人兄弟は、漁港で魚を拾ったりして生き延びた。
1965年、東京に集団就職。本籍が「網走無番地」であったことから疎外され、職は定まらず、1967年、定時制高校に入学。職を転々としてついに犯罪に走った。盗んだ拳銃で、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺。判決は死刑。
獄中で文字を学びつつ、おびただしい本を読み、日記をつけ、独学で執筆活動を開始する。そして『無知の涙』『木橋』『捨て子ごっこ』等を発表した。印税は被害者遺族へ送る。
死刑執行されたのは48歳だった。死後、弁護人たちによって「永山子ども基金」が創設され、著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付されている。貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの永山の願いである。


永山は手記『無知の涙』のなかで、こんなことを書いている。

「私に、自身が失ったと思うものは何かと質問されたらば、私は何もないという。否、それよりも得たと思うものが多大にあるという。私の現存在が、思惟する有象無象の精神内部の現象を、私がすべて接吻しても決して悔恨するものではないという。淫猥な言語を吐く自己も、テロリストの自己も、嫌悪するところの卑劣漢と変化した自己も、すべて愛し抱擁すべく私の存在なのだ。ああ、私はこれらそれぞれの自己にあつい接吻をしよう。そして、この精神状態になるとき、ドストエフスキーのラスコリーニコフが、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが、地面に接吻する心理が理解可能なものとなる。この心理状態は、深層で全くの自己自身だけがいとおしい心理になった時起こるものなのだ。
瞬間的とも永遠的とも判別されえない精神状態が自己内で続きに続いたとき、そこに地上があるのである。この自己の全存在を置いて在る地球!
この愛して愛して愛しぬいても、その愛は足らない永遠の地球!」

「(ドストエフスキーの)物語のような世界が現実にあの時代、つまりロシアと名乗っていた時代にあったのであるならば、そのころのツアー政府の時代がいかに悪徳の横行した世界であったかということが想起される。ロシア文学は貧困生活の描写だ‥‥。
問題なのは、ドストエフスキーの文学世界がこの現代資本主義の日本に現実に見られるということなのだ。ドストエフスキーは一世紀以前の人だ。その人のいう世界が未だ私の目の前に見られるということは、いったいどう考えたらいいのだ。私はラスコリーニコフを真似した訳ではない。それなのに私はあの事件と同様な状態におちいってしまった。」


ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公、ラスコリーニコフは、貧しいインテリ青年だった。父ははやく亡くなり、年金で暮らす母と、妹が、苦しい家計の中から、大学で学ぶラスコリーニコフに送金していたが、彼は、貧苦に耐えて大学を出たところで、せいぜい安月給の官吏か教師になれるのが関の山だと、大学を辞めてしまった。そしてうつ状態におちいり、生きていくことも苦痛になる。
とじこもって空想の世界にいた彼は、空想を照明するために、二人を斧で殺害してしまう。殺されたのは、金貸しの老婆とその妹リザベータ。ラスコリーニコフは、「社会にとって益にならない」老婆を殺し、その金を奪って事業を起し、有為の青年たちを援助するのは正しいと考えたのだった。妹リザベータは、たまたま帰ってきたときに巻き添えとなった。


ロシア文学者・中村健之介のドストエフスキー論は文章に力がある。
彼は次のようなことを書いている。

「作者がリザベータの帰宅を早めて、起こらなくてもよかったはずの出会いと殺人をラスコリーニコフに与えたのは、この『被害者による加害者の赦し(ゆるし)』を語りたかったからなのではないかと思われる。
ドストエフスキーの世界では、正義の要求は、いつも最後は、人の罪はすべて赦されるのではないかというこの『赦し』の要求にのみこまれてしまう。敵同士が赦しあい抱き合う和解への要求、際限のない寛容への願望、それが若いときから晩年まで衰えることなく続いたドストエフスキーの希求である。
‥‥リザベータとソーニャが殺人者ラスコリーニコフに対して示した罪の赦しの論理は、法律家でなくても、あまりにも寛容な、無際限の赦しと見えるだろう。‥‥しかし、ドストエフスキーは、ひたすら赦しだけを求め続けた。ドストエフスキーは、生きていながら『死せる生』に閉じ込められている青年ラスコリーニコフが、そこを脱して『生ける生』に至るという蘇生の物語を書きたかった。リザベーダは、こういう作者の意図に従って、ラスコリーニコフを蘇生へと向かわせるために、犠牲となったのである。『まことに苦しまずば、まことに喜ばれず』ということばは、『死せる生』に閉じ込められて苦しんでいるラスコリーニコフへのメッセージだった。そしてソーニャはリザベーダの十字架を肌につけて、シベリアの流刑地へ向かうラスコリーニコフに同行する。ソーニャの入っていけない獄舎の中では、リザベーダがソーニャに贈った『あの福音書』がラスコリーニコフの寝床の枕の下に置かれていたのである。」