中尾佐助の見たブータンと現代文明


中尾佐助が1958年に探検したブータンは電気もまだ家々に来ず、自動車もないブータンだった。それから中尾は23年後の1981年にブータンを再訪している。その時のことを中尾はこう書いている。


「(23年前)この小国に初めて入り、つくづく感嘆したのは、ブータン人が全部豊かな生活をしていることだった。水田の稲、畑の麦、山地の牧畜を組み合わせ、米の飯と乳製品、肉(ヤクの乾燥肉)を毎日民衆が食べていた。家屋は二、三階建てで非常に大きく、しかも稲作の低地と麦作の高地に同じような大きな家を持っている人も多かった。アジアの中に、民衆の生活がこんなに安定した国は一つもない。もちろんごく少しばかり貧民がいたが、それはなんと十年前に解放された奴隷たちだけであった。まだ都市ができておらず、城の周りに村があるだけの社会、技術文明も近代的なものは何一つ存在しないという社会で、私は一つの古代的なユートピアが達成されたのを見たという実感であった。人間の歴史の中には、こういうことがあり得たのかと自問自答したのだった。その隔絶し完成された小さなブータンに、外界に通ずる一本の道が1963年にできた。20年前のことだ。それから毎日、トラックと乗用車があらゆる文明をこの古代的社会に運び込んでくる。そこに何が起こったか、私はそれを今回見に行ったのだった。
インドからブータンに入る国境の町、プンツォーリンは今やブータン最大の都市となっている。そこから自動車で一日行程の首都ティンプーは、決定的にブータン風の都市である。20年前には、小さな城と、水田の間に農家が散在し、木地師や紙づくり職人の小屋と二、三軒の小売屋があっただけの場所に大きな都市が出現していた。その都市の家屋は、命令によって西洋風でもインド風でもない、ブータン風の建造物になっていて、その中に電灯が入っている。そういう形にブータンは近代化をはじめている。」(「秘境ブータン岩波現代文庫


それから現代に至るまで、ブータンは守るべき伝統と、近代化のはざまのなかをくぐってきた。
発電所の建設、貿易、スーパーマーケットの出現、教育の推進、都市化、それらの近代化に対して、宗教(チベット仏教)や自然はしっかり守られている。
東京農大教授で、照葉樹林文化研究会の山口裕文が糸杉の木のことを書いている。

人間生活と強くかかわるブータンの自然は、この50年間でおおよそ変わっていない。中尾が1958年に馬上から見た、ブータンの国樹であるイトスギは、2010年、同じところに大きく育っている。
「近代化の変容のなかで魂で守られたイトスギは、変わらない姿を持ち続けているのである。
道路網や送電などインフラの整備によって近代化はますます進んでいる。それを示すかのように、飛行場や観光地の駐車場などに、ブタナやセイヨウタンポポなどの外来種が侵入し、生態系の劣化も具現しつつある。中尾の予測した近代化や文明化にともなう問題の表れの一つと見られる。」(「秘境ブータン岩波現代文庫


中尾がブータンにはじめて入ったとき、何日も何日も照葉樹林地帯を馬で越えた。
ブータンから中国雲南省、長江流域、台湾、日本へと続く照葉樹林、それは中尾の研究テーマ、照葉樹林文化論となっていった。
照葉樹林は、日本でも国土を守る重要な樹木であった。しっかり根を張り、山の崩壊を防ぎ、水を蓄える。照葉樹林から流れ出る川が海に注ぐところに、豊かな漁場が生まれる。
その日本の照葉樹の森は、戦後の開発で根こそぎ失われた。田園地帯の開発は、里山をつぶし、雑木林を伐採してしまった。今、照葉樹林はかろうじて寺社林に残されている。照葉樹林は、スダジイ、アラカシ、クスノキ 、ヤブツバキ、タブなどの常緑の広葉樹である。
失った照葉樹林をとりもどす、日本で始まっているプロジェクトのなかに次のような計画がある。


宮崎県綾町では、「綾の森」照葉樹林をより豊かな森にして未来へ残そうと、綾町、宮崎県、九州森林管理局、NPO団体、(財)日本自然保護協会等が、復元プロジェクト計画を立てている。約1万haを舞台に、町民や民間団体、企業がつながり、保護林の新設 人工林から照葉樹林への復元 森林環境教育など住民参画型の森林づくりを実践し、自然と共生した地域づくりをめざす運動である。
目先の利害を超えて、未来の子孫につながる計画こそ、地方自治体の魂にならねばならない。
こういう希望の灯が日本にも生まれているのだ。