「ウィーンの森」



 図書館で蝶ヶ岳関係の本を書棚で探していて、一冊の本が目に留まった。「ウィーンの森 ――自然・文化・歴史―」、アントン・リーダーというウィーン在住の、オーストリア連邦森林庁に勤務する農学博士の著書だった。戸口日出夫訳、日本人に向けて書かれていた。(南窓社)
 ウィーンの森、今回の旅ではまったく考えに入っていなかった。
 この書で、オーストリア人が日本人に向けて、ウィーンの森を紹介したということは、意図があってのことだろう。読んでみてなるほどと思う。「東京の森」と言えるはずだった武蔵野は消滅した。市街地に今や森は存在しない。ウィーンの森は、まさに都市の住人と切っても切れない存在になっていて、森が都市の文化になり、森林社会になっている。地方都市も同様に森が都市に生きている。そのオーストリアに比べて、日本の都市づくりには、都市と森林の関係についてビジョンが存在しなかった。市街と森林を融合させるビジョンは人間の精神性にも影響を与えることである。
 東京23区の3倍以上の広さを持つウィーンの森には、400を超える散策路やトレッキングコースがある。森の中、分岐点には道標として木々に散策路を示す色がマークされている。
 都市に隣接しながらもウィーンの森は深い。シューベルトの「美しき水車小屋の娘」や、ベートーベンの「田園」はこの森で生まれた。ベートーベンは、「ここで、このように自然に包まれ、わたしは何時間も座っている。心は、自然が身ごもり産出する子らの光景にうっとりと眺めいる」と述べていた。シューベルトは森の緑のなかのインスピレーションに従い、それが音楽の源泉であった。
 ウィーンの森は市民により、とりわけ芸術家によって見いだされた。詩人、音楽家、画家は森を訪れ、森から力を得て芸術を創作した。
 ウィーンの森を散策すると、人は文化に出会う。ウイーンの森に沿って、あるいはそのなかに、ウィーンをはじめとして幾多の印象的な街や村がある。それらは豊かな森を背景に、潤いある落ち着いた町として作られてきた。そこにはたくさんの文化遺産がある。城があり、修道院がある。長い歴史があって広大なウィーン森林文化圏がつくられてきた。
ウイーンの森の麓には一面のブドウ畑が広がり、森に入って上方に向かうとブナ林に吸い込まれる。森は丘陵状をなして遠く南のアルプスに延びている。
 モーツァルトは緑したたるブナの木々に包まれながら、オペラ「魔笛」の一部を書いた。ウィーン市の西の森には、動植物の自然保護区、ティアガルテンがある。その総面積は1900ヘクタール、原生林の様相を持ち、森林の間に草地や野原が点在する。ぽっかりと開いた空間と青空、そこはきっとほっと気分を転換するところでもあろう。ティアガルテンは、全長22キロメートルの石塀に囲まれている。そこには年に50万人の人が訪れる。90頭のアカシカ、50頭のノロジカ、1000頭のイノシシ、160頭のダマジカ、600頭のムフロン(野生羊)、17世紀に絶滅したとされていた10頭のオーロクス、10頭の野生馬が生息している。
アントン・リーダーは森の四季を描く。
 春、石灰岩・白雲岩丘陵地帯、針葉樹の先端がいいようもなくやわらかな、緑かがやく芽吹きを見せる。広葉樹も新鮮な緑を放射する。ブナ、ナラ、カエデ、トネリコ、ザイフリボク、セイヨウカリンが緑の交響楽を奏でる。中高木の開花が低木に移り、壮麗な色彩のドラマ、やがて光に満ちた毛氈が広げるお花畑となる。
 夏、暑い日には、ブナ林の繁茂した葉の屋根が、心地よい森のなかの涼しさを保ってくれる。いつまでも暗くならない夕べ、森をゆっくり散策してから、麓のブドウ畑の中にあるホイリゲの庭でよく冷えた白ワインを飲む。このとき生きている喜びを感じるだろう。
 秋、木々の葉は、金色に紅に染まる。十月、霜の降りた夜が明けると、森は色とりどりの炎に包まれて燃え上がる。

 ウイーンの森は広葉樹が大部分で、ブナが最も多い。1970年代に森林庁は大量にナラの樹を復活させた。針葉樹は、クロマツ、トウヒ、カラマツ、アカマツ、モミ、イチイなどだ。
 鳥の種類の豊かさは他国の森よりも群を抜いている。137種の鳥が森の中で孵る。147種が森で確認されている。
 森は更新する。ウイーンの森では、天然更新を促進し、造林も行われている。
 市民にとって森は健康の泉だ。
 ウイーンの森で市民は、ハイキング、乗馬、サイクリング、ウインタースポーツなどを行ない、健康を維持している。広大な森の中には迷わないように道標や目印がつけられ、休憩所がたくさん設置されている。森は、水や空気をフィルターのように浄化し、蒸発によって熱を放散する。森はダムように水を貯え、洪水を防ぐ役割を果たしている。
ウイーンの森は、生物圏公園として、ユネスコによって承認された。チロルの二箇所と共に。

 アントン・リーダーは最後にこう記している。
 「第一次世界大戦中、ウィーンの森に戦闘は起こらなかった。戦争に負けたオーストリアは小国に転落し、戦後の経済的困窮が原因になってふたたび世界大戦が起こったわけだが、第二次世界大戦の終わりごろにはソ連軍によって制圧されていくなかで多くの小規模の戦闘が続いた。そしてソ連によってウィーンの森に住む住民に対してひどい攻撃が加えられた。今日でもなおウィーンの森の木々には数多くの榴弾の破片や銃弾がくいこんでいる。それらは製材所で木材を切るにあたって、のこぎりに重大な損害を与えている。
 戦後、二十世紀後半になり、経済的繁栄が始まった。ウィーンの富裕な住民は快適な住宅を求めてウィーンの森周辺に押し寄せた。多くの土地が住宅地に変わった。地価が高騰した。今もなお部分的には宅地化が進んでいる。無計画な開発のために景観はますます破壊されている。
法によって、森林が居住地用に犠牲にされないこと、ウィーンの森の森林比率が将来的に確保されているように見えること、それがせめてもの慰めである。」
 「ウィーンの森」というドイツ語名称が初めて古文書に記されたのは1368年であった。
 1755年、ウィーンの森は国有地になった。

 オーストリアは破壊を経て、こうして生活に直結する森を守ってきた。