中尾佐助が見たブータン<乳加工品の発見>


 三九郎


中尾佐助ブータンに入ったのはブータン王の招待だった。
だから王宮のあるところでは国賓として待遇されたのだが、奥地の探検は自前だった。各地を巡り、植物の研究とともに、中尾は人の暮らしにも注目した。
ブータン人の生活には米と牛乳が欠かせない。乳を出す牛もいろんな種類がいた。
ブータンの群役所の地下室に行くと、米とバターが山のように積み上げれていた。


ブータンの租税はたいてい物納で、ほとんどが米かバターである。役人の給与は金1分、米1分となっている。
ブータンの生活では、牛から取った乳を除いては考えられない。一日として乳か乳製品を食べない日はない。
奥地旅行中、たまたま近くに人家のないところでキャンプしたとする。牛乳がきれる。すると私の従者は、実に申し訳なさそうな顔をして乳のきれたことを弁解する。
『サーブ、明日はよい牛乳のあるところに行きます。』
と明日を約束してくどくあやまる。私が何より大切にしている植物標本が紛失しても、なんとも感じない彼らが、こと牛乳になるとこのしまつだ。私は腹が立つより、おかしくなってしまう。
乳製品への執着はなにもブータン人だけの専売じゃない。ヒマラヤ登山の立役者シェルパ族だってそうだ。私がかつてネパールの奥地を一人でシェルパを連れて歩いていたときのことも忘れられない。夕刻になってシェルパが、
『サーブ、近くに遊牧のテントがある。乳を買ってきたいから1ルピーください。』
といった。
金を渡すと彼は、近くと言ったのに8キロほど離れた山道を一人てくてくと出かけていった。
カラコルムでも、バターと粉乳がもらえなかったばかりに我々の一行から召使がそろって逃げ出したことがあった。逃走の途中、その一人が氷河のクレバスに落ちて死んだのは、全くいたましい思い出だ。
乳製品が食べ物からきれたら、暴動でも革命でもおこしかねないのがヒマラヤの連中だ。
ヒマラヤでは生乳はほとんどバターになる。チーズは副産物。生乳のままではほとんど飲まない。乳をおけのなかに数時間放置すると、発酵してヨーグルト状になる。それを根気よくかきまぜると、バターは堅いアワのようになって分解してくる。残りを再び発酵させ蛋白質が凝固すると、それを分けてチーズを作る。残りの水は飲用になる。原料の生乳も、ヤク、牛、ジャッサムなどの種類に応じて加工法や製品にも違いがある。バターは中の水分をすっかり蒸発させたものが保存用に普通につくられている。バターは堅い黄色のかたまりとなり、大葉シャクナゲの葉で包まれて保存、輸送される。
チーズの種類はとても多い。牛やジャッサムからのチーズは、白色の軟チーズで生食または料理用になる。ヤクのチーズは石のように堅く、乾燥され、黄色で保存がよい。このほか、ヤクの乳のクリームチーズ、ゴルゴンゾラチーズのようなものとか、無数にある。
東洋の各地にも何千年の昔から、各種の乳製品があったのだ。
ブータンの加工法は、西アジアからインド、チベットなどに共通する加工法の基礎になっている。
東洋にはもう一つ大きな加工法がある。モンゴルの加工法だ。モンゴル族の加工法は簡単に説明ができないほど複雑な方法があり、乳製品のバラエティは途方もなく豊だし、副産物が徹底的に利用されている特色がある。(モンゴル・チャハル地方の)乳加工の最後のあまりもので、発酵蒸留した乳酒、アルヒのさわやかな酸味と香りに親しんだ人なら、すぐにこのわけがわかるだろう。
モンゴルの乳加工法に比べれば、われわれが先進国のように考えがちの欧米の乳加工なんか、なんと無器用だなと、思わないわけにはいかない。
われわれ日本人はそろそろこの辺で性根を入れ替え、欧米一辺倒にならず、東洋に在来した多くの優れた乳加工品を究め、それを近代化して乳加工業の新しい分野を開くべきではなかろうか。そのヒントになる秘密は、乳の流れる国ブータンの小屋の中にもころがっている。」


50年前、中尾佐助はこのように書いた。
さて、日本の乳製品と日本人の暮らしはその後どのような道をたどったのだろう。
欧米に学んだ業者の作るすぐれた乳製品は増えてはいるだろうが、需要と供給はまだ少なく、酪農業は厳しい。
アジアの乳製品の加工に学ぶということでは、はたして中尾の言ったようになっているだろうか。
1945年の終戦後、飢えの時代、配給にチーズが少しあったことを覚えている。欧米から飢餓の日本人への援助物資であった。初めてかじった石鹸みたいなチーズは、ぼくにも家族の口にもなじまず、母はそれをすべてお隣へさしあげた。栄養の足りない時代にどうして食べることをしなかったのだろう。チャレンジをしなかったことは惜しかったと今にして思う。