中尾佐助が探検したブータン

 穂高駅前の「登山の親子」像 


 中尾佐助ブータンを探検したのは1958年だった。
東日本大震災の被災地を見舞うために、昨年ブータンからブータンの心を携えてやって来られたお二人の姿は、日本人に深い感銘を与えた。国民総幸福を国是とするブータンは、日本のルーツをその文化に見る国でもある。
ひたすら走り続けてきた日本と、スローに国民ひとりひとりが幸せになるように自然と一体になって生きてきたブータンと、同じルーツをもつ両国の今の姿は大きく異なってしまった。
あの当時、中尾佐助ブータンに入りたいと思っても、ことは簡単ではなかった。長い困難を極めた過程を経て、植物学者で登山家の中尾佐助は、インドからブータンに入る。
山岳地帯の泥濘のなかを馬で越え、ヒルの攻撃にさんざん悩まされながら、たどりついたときの感激は大きかった。


「私はとうとうインドとブータンの国境を越えた。世界のあらゆる文明は私のうしろにある。私の前にひろがるのは謎の国だ。そこは日本の古代の風習がそのまま残っているところだ。世界のさいごに残された秘境だ。何がこれから私の前に出てくるだろうか。私はギュッと身体がひきしまった気持ちで再び進み始めた。」(「秘境ブータン岩波現代文庫

下痢に苦しみ、悪戦苦闘の末、中尾佐助は最初の農業地帯にたどりつく。

「雨とぬかるみから解放され、涼しい風が吹く農耕地に入り込んで、私はすっかり元気づいた。目の下の丘陵には段々の水田が青々と目に楽しく、麦畑は黄色に熟し、桃色のソバの花が真っ盛りだ。見れば麦の収穫もはじまっている。放牧の牛が列をつくって畑の間を通って家路についていく。百姓娘が大きな壷を持って水をくみに出てくる。白壁の農家の窓からは夕食の支度の煙が立ち上がっている。村の中央には古城の物見塔が白くそびえている。私は全く平和なブータン中央部の農村地帯に入ってきた。これがほんとのブータンだ。ヒマラヤ山脈の中腹、南の照葉樹林の大密林、北はチベットとの境の氷河のヒマラヤ主脈に囲まれた、人を容易によせつけぬ場所だ。山の斜面を開き、水田の稲と、小麦、大麦、ソバなどをつくり、牛を飼って乳をしぼり、大きな家を建て、鶏、豚はそのまわりを走っている。ここで彼らは自給自足で暮らしてきたのだ。」

中尾は、植物を観察し始める。

ブータンの山々に咲く花は、どれ一つとっても私になじみを感じさせるものだった。ハッと心をひきつける花、ああこれは日本と同じ種類だ、などと心をはずませる花がたくさんあった。」


探検の途中、中尾は持ってきたラジオで世界のニュースを聞いていた。各地で紛争が起こっていた。
ブータンのドルジ首相がこんなことを中尾に言った。
「君はブータンにいるほうが、日本に帰るよりも安全ですよ。」
中尾の内心を見透かすようであった。

「なるほどそういえばそうだ。たとえ水爆戦争の時代になり、全世界の空気と水が放射能の灰に満たされても、ここブータンには何千年もの昔から降り積もった雪でできた放射能のない氷河がある。チョモラリ氷河の溶けた水で体を洗い、その水に育った野草と、一年以上貯蔵した穀類を食べれておれば、世界のどこより放射能の害はないわけだ。」


それから半世紀、世界を覆う地球規模の自然破壊は、究極の安全地帯をどこにも見出せない状態にしてしまった。