あいさつは「温かい紅茶の一杯」


ぼくの車の前のトラックが止まった。
トラックの前に横断歩道があり、小学生の女の子が二人、急ぎ足でわたっている。
渡り終えると、二人はトラックの運転台に向かって、ぺこりとおじぎした。
かわいいおじぎだった。
信号機のない田舎の横断歩道、
子どもを優先したトラックの運転手と、ありがとうとおじぎした女の子、
それを見た途端、いっぱいの温かい紅茶をいただいたような気持ちになった。
ほんに小さな言葉や挨拶が、温かい紅茶の一杯になります。


    さむいね
    ああさむいね
    虫がないてるね
    ああ虫がないてるね
    もうすぐ土の中だね
    土の中はいやだね
    痩せたね
    君もずいぶん痩せたね
    どこがこんなに切ないんだろうね
    腹だらうかね
    腹とったら死ぬだらうね
    死にたくはないね
    さむいね
    ああ虫がないているね


この詩は、草野心平の「秋の夜の会話」です。蛙が二匹、会話しています。
    さむいね
    ああさむいね
    虫がないてるね
    ああ虫がないてるね
あいさつは、あいづちから始まります。
あいづちで、同じ思いを共有します。
共有するから、一筋の心の糸がつながります。
    もうすぐ土の中だね
    土の中はいやだね
    痩せたね
    君もずいぶん痩せたね
少し自分の気持ちが出てきます。
土にもぐって、冬眠する蛙たちの気持ちは、じっと耐え忍ぶ気持ちです。つらい気持ちが共鳴します。
    どこがこんなに切ないんだろうね
    腹だらうかね
    腹とったら死ぬだらうね
    死にたくはないね
冬の間は、何も食べません。食べるものがありません。お腹もすくでしょう。寒いし、お腹もすくし、周りは土だけの世界、切ないです。
    さむいね
    ああ虫がないているね
ここはもう同語のあいづちではありません。心のあいづちです。
あいさつは、心のあいづちです。


なんでもない言葉のあいさつが、心の潤滑油になっていて、一杯の温かい紅茶になっていて、
今日も、道で出会った人とのあいさつ。
「寒いですねえ。」
「ほんとに寒いですねえ。」
「気温はマイナスですねえ。」
「ええ、零下3度ですよ。」
「お昼には暖かくなるでしょう。」
「ええ、お昼は暖かいでしょうね。」


家族でも、ご近所でも、職場でも、なんでもないあいさつだけれど、それは人と人とをつないでいる。
あいさつが消えたら、一杯の温かい紅茶が冷える。
あいさつの消えた関係は、寒々とむなしい。


ところで、話変わって、
草野心平はカエル語の詩を書いた。


       ごびらっ子の独白

    いい げるせいた。
    でるけ ぶりむ かににん りんり。
    おりじくらん う ぐうて たんたんけえる。
    びる さりを とうかんりてを。
    いい びりやん げるせえた。
    ばらあら。ばらあ。


1973年、スウェーデンストックホルム大学の日本語科で、詩人の宗左近が日本の詩を語って、心平のカエル語の詩を朗読した。
すると、学生たちは、「ごびらっ子の独白」は、「カエルの自己肯定の宣言だろう」と推察した。
ストックホルムにはカエルはいない。でも、見たことのない生きものの根源の声を、スウェーデンの学生たちは聴き取った。
あと二編、「祈りの歌」のカエル語の詩を、学生は「いっちゃあ、だめ」と感じ取り、「おれも眠ろう」のカエル語の詩を聴いたとたんに、げらげら体をゆすって笑い出した。
そういう声を、「原音」と言う。
心平が語る「原音」とは、
「肉声でもあり、もっと昔、生まれたときからある自分自身の音楽というと上等すぎるけど、音(おん)だね。
肉声のバックグランドにある音といったらいいようなもんだな。」
心平が訳した「ごびらっ子の独白」は、
  「ああ虹が。
   おれの孤独に虹がみえる。
   おれの単簡な脳の組織は。
   言はば即ち天である。
   美しい虹だ。
   ばらあら ばらあ。」