中沢義直さんと会ってきた



中沢さんと会ってきた。
写真家の中沢さんのことを知り、著書「安曇野雑記」を読んでから、一度会いたいと思いつづけ、朝電話を入れた。
「夕方がいいですね。5時ごろがいいです。」
元気な声だった。
仕事が終わってからのひととき、もう暗くなっているころだけれど、その時刻に出かけた。自転車にしようかと思ったが、上り坂だからミニカにした。
中沢さんの家の前に、剪定した果樹の枝をたくさん積んだ軽トラックが止まっている。ははあ、中沢さん、89歳にしてなお農作業をなさっているか、と玄関前に行くと、中沢さんの愛犬トムが吠えた。
呼び鈴が二つもついている。「左の呼び鈴を押しても出てこない時は、右の呼び鈴を押してください」と書いてある。
両方押しても反応がない。ドアを開けて、室内をのぞくと、中沢さんらしい姿が見え、薪ストーブが赤々と燃えている。
声をかけたら、やっと通じた。
テレビの音が大きくて、呼び鈴が聞えなかったようだ。


いつ安曇野に来て、どこに住んで、「安曇野雑記」は楽しかった、ストーブの炎を見ながら、四方山話をした。
壁にピッケルとアイゼンがかけてある。
中沢さんは「安曇野雑記」のなかに、ピッケルのことを書いていた。


「私はピッケルが好きである。あのモリブデン鋼の鋭く輝く日本刀を思わせるピックのカーブ、山の道具というよりひとつの工芸品の領域に入る美術品である。
 私がヨーロッパの旅をするようになってから、生まれ持った性癖もあり、山の町を歩くたびに古道具屋をみたり、谷間にある小さな村落の鍛冶屋をのぞくようになった。
 オーストリアの村にあった小さな鍛冶屋、ここを発見した時はうれしかった。少し荒削りであるこの鍛冶屋の製品は、日本にも輸入されているスチューバイであったことは尚更なつかしく、早速シャフト60センチの短いのを作ってもらい、求めてきた。
 そんなこんなでシャモニでは古物商で、アルフレッドベンド、ツェルマットではシルドSOの重厚な逸品を見つけてきた。この二本はいまでも私の自慢の所蔵となっている。
 昭和20年代といえば、日本は敗戦から立ち直って間もないころである。そのころ上高地にやってくるのは、復員姿の元兵隊か学生みたいな人々である、そういう食えない人間の中に、上高地の小梨平テント村で、山仲間の余った食料をもらって生活する奴がいたことはおどろきであった。山内東一郎氏制作の一尺物のピッケルを抱えて、人だかりする日中の河童橋あたりをブラブラする、山へ登る意志はあまりない、たぶん私の想像では、山好きな父親のを持ち出して、その山内ピッケルの威光をみせびらかしに来たのだろうと思う。
 私の思い出のピッケルは、戦後すぐに求めたフランスのシャルレである。上京間もない私だから少しむりをして求めたのだが、残雪の横尾の岩小屋で薪割りに利用していてブレードを半分折ってしまった。‥‥今は国営安曇野公園の山小舎ルームに飾ってある。」


中沢さんのこういう文章を読むと、ぼくもまたピッケルの思い出をさかのぼり、貧しくても山への憧れをもって生きていたころの人々の姿と山恋いが、ひたひたと押し寄せてくる思いがする。
戦争が終わったとたんに、山を愛する人たちは、待っていましたとばかりに、なけなしの暮らしの中から困難な登攀にチャレンジしていった。そのころの山人のひたぶるな思いがいとおしい。あの戦争の時代は、ひたすら隠忍の暗い時代であり、戦後は壊滅的な生活状況であったけれどもどれほどの解放感があったことだろう。

ぼくが剣岳に登ったのは、17歳の夏で戦後9年が経過していた。ピッケルは初心者向けの安価な「アルピニスト」の銘が入ったもので、学校登山部のものだった。
大学山岳部にはいってから、サッポロ門田のピッケルとアイゼンを購入した。ピッケルの名品で高嶺の花だったシャルレとかシモンとかは、ヨーロッパアルプスとともにぼくら貧乏学生の憧憬であった。


中沢さんは、ストーブにまた一本の薪をほうりこみ、一杯のコーヒーを入れてくださった。
「薄いですよ、でもコーヒーです。」
色が薄かったけれど、味はコーヒーのあじがした。
大きな天体望遠鏡が置いてあった。聞けば、先日の皆既月食をこれで見ようと思っていたが雲で見えなかったということだった。89歳にしてなお青年の心失わず、宇宙自然界への興味関心は静かに燃えている。
会話は途切れずに続いた。今の、新市庁舎の問題、景観の問題、中沢さんの問題意識は、いまもシャープであった。
ぼくが、樹木葬霊園をつくりたいと考えているという話をすると、中沢さんは大きく反応した。
一本の好きな樹を植えて、その樹の根方に一片の骨を埋め、亡くなった人の聖なる樹として、人びとの癒やしを生み出す公園、
桜が好きな人は桜の樹を植えてその下に。ケヤキの好きな人、カツラ、ブナの好きな人、いろんな樹が植えられて、亡くなった人たちが安らかに樹の霊となる。家族や友人はその樹を見守り育て、その樹に亡き人を偲ぶ。公園を訪れる人はそこが心の平安と癒やしの森となる。
墓をもたない人にとっては、念願の森になるだろう。
「人間の命と樹の命と一体化する、それはいい話ですね。本当につくりたいですね。」
中沢さんの顔に光がさした。
「でも、そういう土地をどうしたら見つけることができるかです。」
「土地はあると思いますよ。」
「ありますかねえ。」
この話、このままで終わりにしてはいけない。
中沢さんという賛同者が生まれた。
亡くなった人は自然界に還り、人間の命を育む森をつくる、樹木葬公園は命の森となる。
またお話しましょう、中沢さんは笑顔でリンゴの一袋を土産にくださった。
外に出たら、
「あの話。」
玄関のドア越しに聞えた中沢さんのその一言。樹木葬公園をつくろうという意思表示だ。
外は真っ暗闇だった。