宮澤賢治の思想と東日本大震災




この夏に出版された山折哲雄の新しい本、「往生の極意」(太田出版)を読んでいる。


宮沢賢治は、明治三陸地震が襲った年に生まれた。地震と大津波が二万二千人の命を奪い取ったその二ヶ月前に誕生し、誕生四日後に内陸直下型の陸羽大地震が襲う。
賢治が37歳でこの世を去った昭和八年三月三日には、昭和三陸地震が起き、大津波は凶作による大飢饉の東北地方を飲み込んだ。
山折哲雄は、東日本大震災の衝撃の中で、宮沢賢治を心によみがえらせている。
賢治は死の前年に「グスコーブドリの伝記」を書いた。
「冷害と旱魃に打ちひしがれた農業を、科学技術の工夫によってどのように建て直したらよいのか、それが『暗い科学』に魂を吹き込もうとする賢治の使命感となっていた。自然の猛威に直面して、それまでに蓄積されてきた科学的な経験知を総動員して対処しようとする。しかしながら賢治は、やがて、そのような対症療法的な工夫にも限界があるという見方に傾いていった。『暗い科学』に本当に魂を吹き込むにはどうしたらよいのか、というもどかしい思いが胸元をつきあげてくる。そしていつしか『疲れた宗教』に血を通わせようとする情熱がせりあがってくる。」


「宗教は疲れて近代科学に置換され しかも科学は冷たく暗い」(「農民芸術概論綱要」)
「すべての信仰や徳性は ただ誤解から生じたとさえ見え しかも科学はいまだに暗く われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ(「生徒諸君に寄せる」)


グスコーブドリは人びとを救うために犠牲者になることを志願し行動する。
賢治の世界観は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」にあった。このテーゼの背後には犠牲の精神がある。
山折は考える。
「私には、賢治のイメージのなかでは、その犠牲者が世界全体のなかに予定調和的に含まれているとはとても思われない、それどころか最後の最後までずっと『世界』と『個人』は矛盾の関係として残り続けていたと考えています。なんらかの犠牲抜きに危機は解決できない、理想を実現することはできない、そういう問題意識にもとづく決断を彼は抱き続けていた。
‥‥『暗い科学』にしないためには、宗教的信念と実践を必須のものにするはずだと考えたのではないでしょうか。賢治はそうした難題に終生こだわり苦しみぬいた男だったと私には思えるのです。」と。


「ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ」(雨ニモマケズ


山折は、この「デクノボー」とは何かと考える。
そして「よだかの星」と「なめとこ山の熊」を取り上げる。
虫を殺して食べることの苦しみから逃れるために自ら星になるよだか。
熊を殺さなければ生きていけない自分の矛盾から、熊に自分をさしだす猟師の小十郎。
ある意味で人間のあり方に絶望した、その気持ちを詩人として美しいイメージに置き換えたのが『デクノボー』という言葉だったと。


「被災地の人々が穏やかな表情をしていることには驚かされます。心の中では怒りと悲哀と不安の感情が渦まいているに違いないのに、表情はあくまでも穏やかなのです。‥‥天然の無常観が育んだ表情だとしか言いようがありません。
この日本の地震列島の長い歴史の中で、いかに生きるか、そしていかに死に立ち向かうか、
その厳しい課題に鍛えられ育まれてきた心の遺伝子、それがわれわれの同胞の表情にあらわれていると思いますし、そこに日本人の可能性を見出すべきではないかと私は思っているのです。」


「三月十一日以降のこの日本社会は、戦後長く続いた価値観とシステムが根本的に反省を迫られる大転換のときを迎えている。」
賢治の未完成と可能性、そして予言性に、私たちは注目すべきだという山折哲雄の声にぼくは心惹かれる。



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