灰燼の中から不死鳥のように立ち上がる <ウェストンも日本で地震を体験>




ここ数日、地震が連続している。震源地は長野県北部。
TVに、あの不安な地震予報のコールサインがなり、「強い地震が来ます。」と知らせた。
四回だけ、一瞬グラッと来た。やっぱりドキリとして不安が襲った。
グラッと来ると大急ぎでドアを開けて逃げ道をつくる。最初の地震は一昨日だったが、この時はこれから来るかもしれない大きなのを恐れて外に出た。夜はすでに寒く、空を見ると星がきれいだった。
三月に栄村で大地震があり、六月に松本が震源地の地震が起こり、最近は白馬岳の北、日本海側が震源地の地震が頻発している。いよいよ糸魚川‐静岡構造線が動くのかと思ったりもする。
地震のとき、ランはびくっと立ち上がって体を動かし周りを見た。本能的に危険を感知している。


ところで、日本に近代登山の種を播いたウォルター・ウェストンが、日本で地震を体験したときのことを書いている。
1888年(明治21年)、イギリスから宣教師として派遣されたウェストンは、1881年から94年まで日本アルプスに入り、登山と探検を行なった。
その時のことを、「日本アルプスの登山と探検」に著した。この記録は、たいへんおもしろい。ぼくはこの記録を、中学校や高校の授業で読破することを薦める。日本の民衆の歴史と文化を学び、郷土、自然を深く知るための、このうえない教材となると考えるからだ。
日本アルプス」の名称は彼によって広められた。
そのウェストンが、地震を体験したときのことを書いている。


「(東京で)夜遅く、帝国地学協会の書記と会見をすませてから、上野の旅館『名倉屋』へ行った。ぼくたちが宿についたとたんに大きな地震が来た。これはぼくたちが日本滞在中にあった最後の地震だったが、初めてのときと同じような奇妙な、恐ろしい感じがした。
日本在留の外国人は地震について三段階の感情を経験すると一般に考えられている。
はじめてのときはおもしろいという感じである。次は無関心であり、
三度目はもうこれっきりにしてもらいたいという心の底からの願いである。」


この地震体験の後、ウェストンは新潟の糸魚川から全部徒歩で松本まで歩いている。蓮華温泉、白馬山麓松川村、豊科と歩いてきて、そしてこんな記録がある。


「七月二十八日、信州の山々に朝日がのぼり、狭い平野を熱し始めたとき、ぼくたちは元気よく松本に向かって歩いていた。高瀬川の広い河原にかけられた橋がこわれているのを見ると、夏から秋にかけての洪水の威力がしのばれた。それは主として、西方の暗い山腹に縞模様になって残っている雪渓の低い部分が融けることによって生ずるのである。薄い白雲がベールのように日光をかげらせている中を、桑畑や、香り高い松の並木の長い道を通って進んだ。三々五々群れをなして、村の小学校へ通う子どもたちが、すすんでうやうやしいお辞儀をするのを見ると、ぼくたちはまだ文明化(ヨーロッパ化)しない日本にいるということを感じた。
穂高というにぎやかな村に着くころ、ふたたび強く日が照り始めた。この村でぼくたちは薬屋が兼業している『とうしや』という旅館に立ち寄って早昼飯を食べた。
正午を少しまわったころ、ぼくたちは豊科という小さな町を形づくる長い往来を歩いていた。六ヶ月前まではこの町は平野随一の繁華な町だったが、三月に大火が起こってすっかり焼けてしまった。六百戸のうち五百戸以上が信じられないくらいの短時間のうちに焼け落ちたが、いまその灰燼の中から不死鳥のように起ちあがろうとしているところだった。焼けた通りのはずれに涼み台と称する奇妙な台が立っている。これは松の枝で屋根をふいて日光を防いだ高い台で、夕方の涼風にひたることもできるし、付近の山々や再建している家並みの彼方にひろがる平野を見渡すこともできた。」


「灰燼の中から不死鳥のように起ちあがろうとしている‥‥」、人類の歴史はこの繰り返しだった。
気力と賢明さがあるかぎり、力を合わせ助け合うことが出来るかぎり、人は不死鳥のように‥‥。


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