日本語教室への一歩



二十歳ぐらいの彼はまだ少年の面影があった。
国労働部(労働省)の青島研修所で一心に日本語を勉強する彼は希望に燃えていた。
午前中は私の日本語の授業、午後は中国人教師の授業、学習期間は二ヶ月間。
生徒たちは専用の宿舎に合宿し、夜の自習の時間も熱心に習う彼らの中に私は毎晩入って、理解できないでいる昼間の授業の補充をしていた。農村出身者がほとんどの朴訥な青年たちばかり、初めて習う日本語は難しい。
ここでの勉強を終えると、彼らは日本に渡り、さらに一ヶ月の日本語学習を行なって、企業研修に入ることになっている。
私のクラスともう一つのクラスとがあり、一クラス30人が在籍していた。彼はその中でいちばん少年らしい、無邪気さをもっていた。

ある日、彼はもう一人の青年と一緒に、私を小さな飲食店に誘った。客の姿のない、小さな一間だけの店だった。
ラーメンか何か、食べたものは忘れてしまった。
青年たちは、まだ日本語を話せない。私は中国語をろくすっぽ話せない。それでも会話はできた。
彼は将来の夢を語った。彼は母子家庭で、祖父母はいたから4人家族だった。
「音楽が好きです。」
と言う。工場で一日働いて、家に帰ってくると、ひとりでお茶を入れて、ゆっくりそれを飲みながら音楽を聞く、それがいちばんの楽しみだと言う。その話を聞いていて、音楽を聴いている彼の姿が、夕暮れの農村の静けさとともに頭に浮かんでくるようで、私の心も静かに切なくなっていくのだった。
「先生にプレゼントです。」
彼は二枚のCDをテーブルの上に置いた。
「梁祝」とタイトルがついていた。
梁山伯を知っていますか。」
梁山泊のことかな、中国の宋の時代、天険の要地に豪傑、野心家の集まったところ、と思った。
ところが彼の話は、悲恋の物語だった。
梁山伯と祝英台の二人、恋がみのらず、死んでしまうが、蝶々になって結ばれるのです。中国のロメオとジュリエットです。」
CDはその戯曲を音楽にしたものだった。後で分かったのだが、彼の言う「梁山伯」は伯であって泊ではなかった。
「一日教えを受ければ、一生の父親になる、という中国の言葉があります。先生は私の生涯の父です。」
なけなしの金を払って、彼はこのCDを買ってきたのだった。
また別の日、街の文房具店に一緒に行った。
すると入り口のドアを閉めて中に入ると、パタパタとかすかな音を立てて窓にぶつかって飛ぶものがあった。
小鳥、それもスズメよりも小さな青い色をした小鳥だった。
彼は、窓際で出ようとしてガラスにそって飛ぶ小鳥を両手でつかまえた。小鳥は彼の両手のひらの中におさまっている。
「どうしよう、逃がしてやろう。」
外に出た彼が両手を開くと、小鳥はたくさんの出店の並ぶ街の雑踏の上を飛んでいった。


このごろこういう青年のことがしきりに頭に浮かぶ。
あれから5年は経っている。日本に来て3年間企業で働き、今はもう中国に帰って、故郷の家でまた音楽を聞きながら茶を飲み、夕暮れの空を眺めているだろうか。
あるいはすでによき人とめぐり合って、結婚しているかもしれない。
彼が日本にいる間に会えなかったことを悔いる気持ちが湧いてくる。


そうだ。
画いてきたことの一つを実行しようと、昨日、安曇野市教育委員会の社会教育課に連絡を取った。
外国人の日本語教室を地元で開く計画だ。
安曇野市にもたくさんの外国籍の人たちが在住している。教育委員会もぜひ進めてほしいと協力を表明してくれている。新たな次の一歩を始めよう。


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