小説『羅生門』 <1> 平安時代の災害「地震、火災、暴風、飢饉」


すでにこの小説を読んでいる生徒も、マンガで読んだという生徒も何人かはいるが、読書に親しまないほとんどの生徒は『羅生門』を知らなかった。
読んだ生徒も、ストーリーは知っているが、時代や社会や人間を探索して読んではいない。
「映画の一つ一つのシーンを観るように、一語一句を吟味して読んでいきましょう。」
初めに全文を読み通すことはしない。普通の読書のように、みんなで一行一段落ずつ黙読し音読して、順次場面を頭に描き、そこに浮かび上がってくる世界から、次はどうなるかと期待し、読みを重ねていく。


舞台は平安時代の京都、朱雀大路の大門である羅生門の石段に腰を下ろして雨やみをしている下人がいた。夕暮れ、この男以外は誰もいない。キリギリスが一匹、丹(に)塗りのはげた丸柱にとまっている。

都のメインストリートだよ。なのに人っ子一人通らないのか。
当時は、電気なんかなかったからねえ。夕方になるとたちまち暗くなるよ。夜は闇だね。現代人は闇を知らないからねえ。月も星もない雨の日は、鼻をつままれても分からない。真っ暗だよ。
門の丹塗りがはげているということは、修理やメンテナンスもしていないということか。どうして?
キリギリスがとまっているということは、近くに草むらがあるんだ。草ぼうぼうになっている大路かい。さびれているんだな。


「この二、三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉とかいう災いが続いて起こった。そこで洛中のさびれ方はひととおりではない。旧記によると、仏像や仏具を打ち砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、道ばたに積み重ねて、薪の料に売っていたということである。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などはもとよりだれも捨てて顧みる者がなかった。するとその荒れ果てたのをよいことにして、狐狸が棲む、盗人が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のない死人を、この門へ持ってきて、捨ててゆくという習慣さえできた。」

カラスが集まってきて死体の肉をついばみに来る。日が沈むと、羅生門にはだれも近づかなくなった。1000年前の京の都である。


地震、辻風、火事、飢饉、災害が続いて、京都はたいへんな状態になっているんだな。
今年3月11日に起こった東北の地震は、千年に一度の巨大地震と言われているねえ。
そうすると千年前に大地震があったということになる。その大地震か。
辻風というのは旋風ということだけど、竜巻かな。
平安時代の災害を調べてみるとねえ、やはり災害が起こっているんだなあ。
大きな災害をあげてみるよ。


869年、貞観地震。東北地方に大津波
887年、仁和大地震マグニチュード8.0〜8.5(推測)。摂津(大阪)を大津波が襲った。
1096年、永長大地震マグニチュード8.0〜8.5(推測)。近畿各地に被害。天皇が政務を行った大極殿も被害にあう。
1098年、康和大地震。近畿東海に大被害。駿河に大津波。400の社寺流失。
1177年、安元の大火事。京都の三分の一が消失。大極殿も消失。
1180・81年、養和の大飢饉。飢え死にする人多数。
1185年、元暦大地震。近畿に。
1230・31年、寛喜の大飢饉。人口の3分の1が餓死。
永長・康和の地震は、東海、東南海地震ではないかと言われている。


1000年も昔のことだから、記録に残っているもの以外の災害は分からない。
1212年に書かれた『方丈記』(鴨長明)には平安時代の災害の記事がある。
現代語訳で要約すると、まず地震

「元暦二年、大地震があった。山は崩れ、川は埋もれ、海は傾斜して陸地におおいかぶさった。土は口を開けて水を噴き出し、巨岩は割れて谷に転び入り、舟は波に翻弄され、道を行く馬は足の踏み場に当惑した。
京都の近郊は、建物一つとして満足な形のものはなく、崩壊したり倒れたり。大地は鳴動し、家のつぶれる音、雷鳴のようで、屋内におれば今にもつぶれそうだし、戸外に走り出ると、足元の地面は割れ裂けてくる。恐るべきものの中でも恐るべきは地震だと感じた。
余震は絶えなかった。普通なら驚くほどのものが、二、三十回あり、揺れない日はなかった。余震はたぶん三ヶ月間ほど続いた。昔、斉衡年間に大地震があって、東大寺の仏像の頭が落ちるなど、大変なことがあったが、それでも今度の地震ほどではなかったそうだ。」


次は火災。

「安元三年四月二十八日、風が激しく吹いて騒がしかった晩、午後八時ごろ、都の東南から火が上がって西北にいたった。ついに朱雀門大極殿、大学寮、民部省にまで延焼し、一夜のうちに灰燼に帰してしまった。火元は樋口富の小路であったとか。病人を泊めていた仮小屋から出火したということだった。火は吹く風のままに移動して、末広がりになっていった。遠方の家は煙に包まれ、隣接した地帯は火炎を地面に吹き付けた。空に灰を吹き上げたから、これに日の光が反射していちめん真っ赤ななかに、風に吹かれた火炎が飛ぶように燃え移っていく。こんななかで人間は正気でいられようか。煙にむせてうち倒れる者あり、炎に巻かれてその場に死ぬ者あり、命からがら逃げ出してはきたが、財産を持ち出す余裕はなくたくさんの珍しい宝物は灰になった。市中の三分の一が消失した。死者は数千人、牛馬の数は際限もわからない。」


続いて飢饉。

「養和のころ、二年続きで飢饉があった。春夏に干ばつ、秋に大風や洪水がつづき、五穀はことごとく稔らなかった。春耕し、夏植える作業は無駄骨になり、秋に刈り取り、冬に収穫するにぎわいはなかった。民は土地を捨てて国外に逃れたり、山野に住むものもいた。都会はすべての物資を地方からの供給に
仰いでいるのに、それが絶無になったから、さすがの都会人もたいへんである。思案に暮れて、いろんな資材をかたっぱしから捨てるように投げ売りするが、時節柄いっこうにそれに目を向ける人がいない。乞食が多くなり、悲嘆の声が満ちた。二年目になったら回復するかと思っていたらそれどころか流行病さえ加わって人々はみな病死し、災害は前年を上回るほどである。一日一日死に絶えていく状態は、少しの水の中の魚のようである。立派な身なりをした人が一軒一軒回って食を乞うている。道路の傍らに死んでいるものは無数である。それを放置しているから臭気がたちこめ、腐敗していく有様は目も当てられない。薪も欠乏してきて、自分の家を壊して薪にして売るものもいるが、そこまでしても一日生きることのできる金銭をかぜぐことができない。薪の中には、赤い塗料や箔のついたものがまじっていて、それは古寺から仏像やお堂の道具類を盗んできて破壊したものだった。」


さらに辻風。

「治承四年、大旋風が起こった。三、四町を吹きまくり、家々は大小問わずひとつとして破壊されないものはなかった。ぺしゃんこにつぶれたものもあったし、桁や柱だけ残っているものもあった。門を吹き飛ばして、四、五町遠くにもっていったり、垣を吹き払って隣家といっしょにしてしまった。屋内の資材はあるかぎり空に舞い、屋根は冬の木の葉の風に乱れるのに似て、吹き上げる塵で目も見えない。また激しく鳴り騒ぐ音で耳も聞えない。地獄の業風でもこれほどものすごくはあるまいと思われた。けが人は数知れない。」



芥川龍之介は、今昔物語をもとにしてこの小説を書いたが、今昔物語では、このような災害のことは書いていない。下人がここに来たのも盗みをはたらくためにと書いている。
羅生門』を読んでいく。下人はどうしてここに来たのか。
下人は右の頬にできた大きなにきびを気にしながら雨の降るのを眺めていた。「にきび」、みんなの顔に「にきび」ある?
あれ、ない。青春のシンボルがないではないか。現代の若い子は「にきび」ができないのか。

<つづく>