91歳、野の道での話


野道をぽとぽと、ゆっくりゆっくりたよりなげに歩いてきて、畔や石の上に腰を下ろして休み、遠くの景色を見やってからまたぽとぽと歩き出す。
ときどき見かけるかなり高齢のおじいちゃんだった。
健康維持のためにウォークしておられるのだろうと、その脇を追い抜いていくときはいつも会釈するだけで、特に話すこともなかった。
先日、我が家の入り口の石に腰をかけておられたので、どうぞごゆっくり、と声をかけて、こちらはランと一緒に大また歩きで一時間ほど野道を歩いて汗だくで帰ってくると、じいちゃんはぼくらのコースの途中5分の1ぐらいのところをぽとりぽとり歩いて来られた。
ちょっとお話、してみよう。
「おうちはどこですか」
と聞いてみた。
「うちは、ほれ、あの木の生えておるところ。左の家。」
西のほうを指差す。
「ああー、あそこ、白い犬のいる家の前ですか。」
「白い犬? いたかね。」
「ビニールハウスが家の前にある。」
「そうそう、ビニールハウスは今、ガレージに使っていてね。」
「そうですかあ、それならいつもお家の前を通って歩いていますよ。」
「はあー、そうですかあ。」
隣はだれそれで、その家の前が隣家の本家で、手前の東の家は年に一度帰ってくるだけで、我が家には猫が2匹いて、捨て猫だったとか、話がはずんで、情報がたくさん聞けた。
そのとぼけた話し振りといい、声の質といい、かつての名俳優、笠智衆そっくりだ。
「お年はおいくつですか。」
「いやあ、かなりの年ですよー。はっはっはー」
「おいくつで。」
「はあー、90越えてねえ。」
「はあー、それはそれは、すごいですねえ。いつもどれぐらい歩いておられるんですか。」
「いやあ、1時間か2時間か。スクワットもしてねえ。」
「医者の日野原さんは100歳で現役ですからねえ。日野原さんは階段を二段ずつ上っておられるそうで。」
「それはすごいねえ。」
「100歳までいきましょう。」
「はっはっは、寿命を決めるのは私ではないですでね。」
お名前も聞いた。Yさん。


翌日、また会った。
自転車で郵便ポストまで行く途中、田んぼの隅で一休みしておられたから声だけかけて、手紙を出して戻ってくると、こちらに向かってとぼとぼ歩きのMさんがやってくる。
自転車から下りて、ちょっとお話をしていこう。
「この辺り、むかしはどんなでしたか。」
「いやあ、ここらは林だったねえ。マツタケがたくさんとれた。26本とったことあった。」
「Yさんの家は養蚕しておられました?」
「ああ、していました。母が蚕飼うのが上手でね。あれは高く売れるときと安いときとあってね。昔の安曇野はホタルもよく飛んだね。コンクリートの水路になってもう飛ばなくなった。」
「Yさんも養蚕していたんですか。」
「いや、私は東京へ出て、日本電気に勤めていてね。」
そこからだった。Yさんは立て続けに話し出した。
戦時中、Yさんも徴兵検査を受けた。乙種だった。軍から命じられたのは、特殊潜航艇をつくる仕事、人間魚雷の装置づくりだ。特殊潜航艇は、爆雷を積んだ潜航艇に人間が乗り込んで敵艦に突っ込み、船を沈める。自爆テロと同じ、人間魚雷による特攻隊だ。
「海軍からは人間魚雷の装置、陸軍からは飛行機の酸素を送る装置。このことは誰にも秘密にするように言われていたから、家族にも話さなんだ。軍事機密だったからね。」
45人の工員がその仕事に従事した。岩手や秋田からやってきた人、それから女学生もいた。
「ところが3月10日に、電報が来て、チチキトク。そのころはなかなかキップがとれなくてね。会社から証明書いてもらってキップを買い、急いで安曇野に帰ってきただよ。そしたら東京大空襲があっただ。」
Yさんが東京を発った後、東京をアメリカ軍のB29の大編隊が襲った。
「工場は焼け落ち、東京は焼け野原になった。私は命が助かりました。けれど、一緒に仕事をした人はみんな死んでしもうた。名前を覚えとりますよ。」
Yさんは二人の名前を言った。親しかった人だったのだろう。
「私は助かった。ですが逃亡したみたいに思われないかと。」
Yさんが、再び東京に戻るのはそれから5箇月経ち、戦争が終わってからだった。
「私は、今もあのときに死んだ人たちを拝んでおりますよ。」
このことは誰にも話せなかったと言うYさんの表情に悲しみがただよう。
「人に話しても、ウソノヨウナホントのことを言うな、いや、ホントノヨウナウソを言うな、言われる。」
道に立ったまま、話は尽きない。
話すほどに記憶の糸がたぐられて、沈んでいたものが浮かび上がってくるようだった。
30分は話されたろうか。
「疲れたでしょう。今度ゆっくり話を聞かせてください。お家へうかがいます。」
Yさんは、何度も「気をつけて帰りましょ」、と声をかけてくれる。我が家はすぐそこなのに。
親友と別れるみたいに、何度も手を振り、見送ってくれた。