般若心経


大和の国の金剛山麓に住んでいた。
山に沿って旧高野街道がうねうねと村と田畑、林をぬうように続き、私の住んでいた集落は旧村のはずれにあって戸数は14戸だった。
秋の初めに地蔵盆があった。
隣の上田さん宅の敷地角をへこませて地蔵菩薩がまつられており、その小さなお堂の前に、14戸の住人が集まって、お祭りをする。本来は子どものお盆の祭りであったものが、もう子どもが集まらないとのことで大人だけで行なわれていた。
長年続けてきた、年に一度のお祭り、ちょうちんを吊るし、お供えをし、準備が整うと、みんなはお堂の前に集まって立った。一人暮らしの岩田のおばちゃんが先導するように般若心経を唱え始め、みんなはそれに合わせて経をとなえる。
「もう一度、あげまひょ。」
誰かが言うと、そうしまひょ、と二回目の般若心経となる。
ぼくは覚えていないから唱えられない。部分部分、知っているところだけ口を動かす。
それが終わったら、上田さんの庭に広げたござにみんなは座って、ちょっとした宴会をするのである。
般若心経の意味は分からないが、ありがたいお経だとみんなは思っていた。


二十代の初め、淀川中学校に勤務していたとき、学校にどういうわけかボーイスカウト指導者講習会の通知が来て、教頭がぼくにその印刷物を渡してくれた。
当事、登山部をつくって生徒たちを山に連れて行ったり野外活動の指導をやったりしていたから、教頭はその関連からぼくに知らせてくれたのだろう。
その講習会は、旭区で団をつくっている若いお寺の住職が団長になって指導しているボーイスカウトからのものだった。
ぼくはそれに参加した。
何回かに渡る講習実技はおもしろかった。ボーイスカウトの歴史と精神も興味深かったが、さらにワイドゲームの実践がとてつもなく愉快だった。淀川の堤防を舞台に、歴史のなかの出来事をストーリーにして、幕府の隠密派と薩長の志士派の二つのチームが活動するというものだった。
記憶というものは不思議なもので、そんなに過去のものであるのに脳にくっつくように断片が残っている。
団長の若い僧はこんな話をした。
「お経の中に、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光という言葉があります。私はこの部分が好きです。」
青い色は青い光を放つ、赤い色は赤い光を放つ、それぞれ自分の持っているもの、その人の自分らしさが光を放つのです、と言ったように思う。
ぼくはいい話だなと思った。その結果、その話は記憶に残ったのだが、どういうわけかお経は般若心経になってしまった。
ところが年を経て、生命科学者にして歌人柳澤桂子が、36年にわたる難病との苦闘の末に著した「生きて死ぬ智慧」を読むと、その部分がない。斉藤茂吉の歌集「赤光」は確かお経のその部分だったと思って、調べると出典は「仏説阿弥陀経」と書いてある。
お経は仏説阿弥陀経だった。みごとな記憶の誤りだった。


柳澤桂子の著は、「心訳 般若心経」とあり、著者の科学の知識と難病体験にもつづいて、心が読み取った訳である。
昨日、本棚のこの本が向こうからぼくの目に飛び込んできた。
ぼくの心境を察して、本が飛んでくるのである。
以前読んでもよく分からなかった。
それをまた読む。


     ☆   ☆   ☆

   お聞きなさい
   私たちは 広大な宇宙のなかに
   存在します
   宇宙では
   形という固定したものはありません
   実体がないのです
   宇宙は粒子に満ちています
   粒子は自由に動き回って 形を変えて
   おたがいの関係の
   安定したところで静止します

   お聞きなさい
   形あるもの
   いいかえれば物質的存在を
   私たちは現象としてとらえているのですが
   現象というものは
   時々刻々変化するものであって
   変化しない実態というものはありません
   実体がないからこそ 形をつくれるのです
   実体がなくて 変化するからこそ
   物質であることができるのです

   お聞きなさい
   あなたも 宇宙のなかで
   粒子でできています
   宇宙のなかの
   ほかの粒子と一つづきです
   ですから宇宙も「空」です
   あなたという実体はないのです
   あなたと宇宙は一つです


心訳はこのように展開していく。
「空」とは何か。
どうもやっぱり理解できたと思えない。


<「空」の心をもつ人は 迷いがあっても 迷いがないときと同じ心でいられる‥‥
こうしてついに老いもなく 死もなく 老いと死がなくなるということもないという心に至るのです
老いと死が実際にあっても それを恐れることがないのです>


<真理を求める人は、まちがった考えや無理な要求をもちません
無常のなかで暮らしながら 楽園を発見し
永遠のいのちに目覚めているのです
永遠のいのちに目覚めた人は 苦のなかにいて 苦のままで
幸せに生きることができるのです
深い理性の智慧のおかげで 無上のほとけのこころ ほとけのいのちは
すべての人の胸に宿っていることを悟ることができました>


柳澤さん、36年目の悟り、
心訳を読んだだけで、悟りに至ることができるはずもない。
しかし、心は何か感じ始めている。