今西錦司が野麦峠を越えたころの野麦村



今西錦司信濃路から野麦峠を越えて飛騨の野麦の村に泊まる旅をした記録がある。
今西錦司生物学者で登山家、探検家だった。
1932年、季節は秋。78年も前のことである。
白樺の高原の細い峠道を越えて谷の開けたところに来ると山村があり、村人はヒエ(稗)を刈っていた。
野麦の寒村だった。残照があかあかと射していた。
どこかで一夜の宿をと頼むと、一軒の家が快く迎え入れてくれた。
貧しい村の貧しい家の囲炉裏端で、あるじと今西は酒を酌み交わす。


「囲炉裏をかこんで杯を取りかわしながら、夜おそくまで村の生活について話は尽きなかった。米はお正月の餅につくくらいしかできない村、ヒエさえ買わねば足らぬ村、植林のほとんどない村、この窮乏した山村を支えているものは牧畜とワラビ粉と養蚕とによる収入のほかなかった。山民は次第に森を伐り、林を焼いて、牧畜に変えていったから、いまでは自家用の薪をとる以上には山林がほとんど残っていない。牧場に放たれた牛馬は茅(ちがや)を嗜食するがポツラは嫌って食わない。ボツラとはワラビの地上部のことで、地下部はワラビ根と呼んでいる。四年もたつと牧場にはボツラばかりが繁茂して、もはや牛馬の飼料に不足をきたすようになる。そこで牧場をほかに移してその跡地からワラビ根を掘り起こすのだが、すっかり掘り起こしてしまうまでにはこれがまた四年ほどかかる。それから四年間ぐらいは放置しておいて再び牧場にするのである。ワラビ粉はおそろしく手間を食うしろものなのだ。掘り起こしてきたワラビ根を水車でついて、そのデンプンを採るために、一家の主婦は朝の三時に起き出でて働く。」


翌朝、今西はさらに困難な山旅を選ぶ。


「村の娘は今日も蓑笠つけて鍬をかついでワラビ根掘りに行く。その歩調には山村の憂鬱がないのだろうか。海の彼方の南の国へ渡っていったツバメの群れさえ迷いもせずに、田舎に育ったツバメはやはりもとの田舎に帰り、町で生まれたツバメはまた町のひさしに帰ってくるに相違ない。私は都会から来た旅人だ。私がその憂鬱にまで立ち入ることは禁物である。私は径を歩かねばならないから。
高原を彩る秋の草はたいてい結実してしまったのだろう。ところどころに咲き残りの松虫草ウメバチソウを見かけるだけで、雨に濡れた尾花のなかを分けてどこまでもたどっていくと、やがて霧の中から牧柵と、ちょっとした窪に無人の番小屋が見つかった。干し草のなつかしい香をかぐと、野性がむらむらとよみがえってくるのを知る。もうここを離れることはできない。火をたき、そして泊まってしまおう。」


草木をかき分けてたどった野麦街道だが、今西の歩いたときから二十年以上前、飛騨の少女たちがこの道を歩いてこえていた。
今は、ライダーの二輪車も軽快な音を立てて峠を燃えていく。