野麦峠と清水牧場のチーズ工房

 旧野麦街道
 清水牧場「チーズ工房」


野麦の山岳牧場へ行き、野麦峠に登ってきた。
お盆で息子の家族が帰ってきており、孫を含めた5人でのドライブだった。
松本から梓川沿いに奈川の村に入り、そこから野麦峠に車で上っていくと、明治時代、飛騨から岡谷の紡績工場へ女工たちが峠を越えて働きにいった旧道が右に現れる。旧道は峠まで1.3キロほどある。
昔のままに保存された苔むした山道を、女工たちの苦難の歴史を偲ぶ人たちは歩いて上り、さらに飛騨の野麦の村まで歩くことができるように残してあるのだが、生えている草には最近人が歩いたような形跡はなかった。
旧道を過ぎるとすぐに、左にひかえめに立てた看板が見えた。「清水牧場 チーズ工房」、落葉松林のなかだった。
林の中を少し進む。何台かの訪問客の車が止まっている。
こんな山深いところに自前の牧場をつくり、チーズなどの乳製品を作って販売している人がいる。品質にほれこんだ人たちが、はるばるとここを訪れてくるのだ。
オーナーは、有限会社・山岳牧畜研究会をつくり、より良い環境を求めてここに牧場を開いた。北アルプス乗鞍岳の南尾根、標高1400m〜1800mに広がる牧場に放牧したブラウンスイス牛とフライスランド羊からミルクを搾る。
真冬はかなりの積雪があるだろう。奈川の村からこの牧場までの距離を考えると、冬の除雪はどうするのだろう。
まきばの草を食べて、牛や羊の出してくれる牛乳から自家製のチーズやヨーグルトを作る。その品質は大手の乳業会社のものとは明らかに違い、風味は格別なものがあった。
販売所で食べたプリンは、香りがあって濃厚、はるばる東京からこの牧場のチーズの味を求めてやってくる人もいるというのもうなずける。
昔、「丘の上の村」で、ドイツ文学者の中野孝次さんが、日本にはおいしいチーズがない、あちこち歩いてそれを探している、それを作れないかと言っていたが、今生きていてここに来たらどう言うだろう。
この清水牧場を舞台にして、野麦峠自然学校というのも開かれているらしい。羊の毛刈り体験とかも子どもたちが体験するのだという。


ここに来て、野麦峠(標高1672m)を見ずに帰るわけにはいかない。牧場から峠に上った。
信濃と飛騨を結ぶ野麦街道の最高点、峠には女工の哀史が刻まれている。
「ああ、飛騨が見える」と言い残して力尽きて死んだ政井みねの像があり、墓もあった。
明治の初めから大正にかけ、富国強兵策のもとで、外貨を稼いだ生糸の生産地、諏訪の岡谷へ、飛騨の少女や娘たちは女工としてこの厳しい難路を越えた。3泊4日の徒歩の行程、冬は雪のなかで倒れる少女も多かった。
集められた女工たちは、粗末な寄宿舎に寝起きして、1日12時間以上の過酷な労働に従事する。肺結核は娘たちの体をむしばんだ。
1968年、山本茂実の書いた小説『あゝ野麦峠』は1979年に映画にもなった。


昼食を食べようと、「お助け茶屋」に入った。ぼくはヒエ飯を注文した。貧しい当時の農民たちはヒエを食べて飢えをしのいだが、ぼくの注文したご飯のヒエは、米の中にわずかに点々と混じっているにすぎなかった。


清水牧場の乳製品の価値を知った人たちが増えている。
ここにも「ほんものをつくる」人の志があり、それが実を結びつつある。