松本治一郎と松本龍



震災復興の大臣に任命されながら、とんでもない発言で辞任した松本龍が、実は松本治一郎の養孫だったいう新聞記事を読んで、
思わず「えーっ」と叫んでしまった。
そうだったのか。
松本治一郎は、『不可侵 不可被侵(侵すべからず、侵さるべからず)』を信条にしていた。
松本治一郎という人間に出会ったのは、被差別からの解放を掲げて先進的な闘争を始めていた地区であった。


青年だったぼくは、その地区の中学校に赴任した。
学校は荒れていた。
本来ならその学校に就学するはずの生徒が多数、他の校区の有名校に越境通学していた。
校区の学校への通学を拒否して、居住する籍だけを他に移して越境通学する。それは、被差別部落をかかえる学校の教育条件の劣悪さと、勉学から隔てられた被差別部落の子どもたちの学習遅滞などが原因になっていた。
赴任する前年に、先輩教師の授業を参観する機会があり、そこで見た光景は、これは学校ではない、という印象をぼくに与えた。
授業に入らず、校庭で勝手に遊んでいる数人がいた。
授業中に、「帰るぞ」と言い残して帰って行く子がいた。
教室の壁に人が通り抜けることが出来るぐらいの穴が開けられ、隣の教室と行き来できるようになっていた。
参観後、ぼくは6年間務めていた学校から転勤することを決意した。
「K先輩、手伝いましょう」
そうしてぼくはそこに赴任した。
校門に設置された黒板に五寸釘を投げつけている「はみだし生徒」に注意して「あわや」という事態も体験し、「荒れすさんだ子どもの生活」にも触れはしたが、しかしその学校の大多数の生徒たちは素朴で親しみ深く、授業もクラスも楽しかった。


部落解放運動の中から、「越境は差別だ」という告発が起こったのはそのころだった。
越境根絶の闘争は、教育闘争となって全国に広がった。
ぼくは校区の被差別部落の集会に参加してみた。そしてそこで見たのは、驚くべき光景だった。
60代、70代の部落のおばあちゃんが順番に立ち上がり、行政の関係者に対して、自分の生い立ちをとうとうと語っていくのだ。
自分の身を売ることも強いられた過去を、怒りをバネにして語る女性、ここに、日本のここに、こういう人たちがいる。
識字学級で奪われた文字を学んできた人たちもいた。
底辺からの運動で培われてきた文化の高さを発見したのがその日だった。


やがて運動は新しい学校建設の構想につながっていく。
そしてぼくは松本治一郎の人生と言葉にも出会うこととなった。
『不可侵 不可被侵』
この言葉が運動体の部屋に書かれていた。
松本治一郎は、戦前は、全国水平社中央委員会議長として、軍隊の福岡連隊差別事件への糾弾闘争を指導したことがあった。戦後、部落解放同盟委員長、日本社会党の国会議員を歴任した。国会開会式での、「カニの横ばい」といわれる天皇への拝謁を拒否し、天皇制のもとでの永年の慣習を廃止させた。インドのネール首相や被差別カーストの指導者とともに国際連帯の活動を進め、諸国との友好親善にも努めていた。日中友好協会会長も務め、中国の周恩来と結んだ平和5原則、アジア・アフリカ会議の平和10原則は、「不可侵不可被侵」の具体化であった。


治一郎は生涯独身を通した。養子を迎え、その孫が松本龍氏だった。
三代目の国会議員に生じたのは傲慢と不見識であったのか、はたしてどうなのか。
彼はかなりの資産家であるとか。
権力を持つ者の心に、生じるものがあり、欠落するものがある。
それは国会議員と国民の関係に、地方行政の首長や議員と市民との関係に、現れてくる。
関係性の中に潜むとんでもないもの。
だから市民運動が必要なのだ。
市民運動が健全に存在すれば、対等平等な関係性が育ち、民主主義が育つ。
権力にこびない、へつらわない、迎合しない、屈しないことの大切さを思う。