国民性というもの


  昨日は美しい夕焼けだった。が今日は台風の影響で雨が降り続く。


池澤夏樹がおもしろいジョークを教えてくれた。
国民性というか、諸国の国民の性格傾向をヨーロッパ現地で聞いて書いているのだが、
こういうジョーク。


天国では、イギリス人が警察官で、フランス人がシェフ、ドイツ人が機械を扱い、恋人はイタリア人、すべてを管理するのはスイス人。
地獄では、イギリス人が料理をし、フランス人が機械を扱い、ドイツ人が警察官、すべてを管理するのはイタリア人、恋人はスイス人。


天国では、
紳士的なイギリス人なら警察官になってもらったらいいだろうね。料理の上手なフランス人がおいしいフランス料理担当、食事が待ちどおしいよ、そして堅実で勤勉なドイツ人が機械担当、安心安心、恋人には情熱的で陽気なイタリア人、ラブラブだねえ、管理は細かいところまでよく行き届くスイス人、精緻な時計を作る国だからねえ。なるほど、なるほど。
そして地獄では料理がまずいという風評があるイギリス人、フランス人が機械を扱ったらちょっと心配、ドイツ人が警察官になったら厳格に取り締まられるかもしれん、管理がイタリア人ではちゃらんぽらんになるぞ。


しかしこれはおおざっぱな特色で、事実はどうか分からない。英文学者の林望さんはイギリス料理はまずくないと書いていたし、フランス人の作る自動車も飛行機も優秀だ。イタリア人にクールな人もいる。性格は個人個人で異なるものだ。しかしこういう見方はなるほどと思わせる。


日本人の国民性となると、どうだろう。
中国の大学で教えた時、中国のある学生は、「日本人は好戦的で残虐な民族だと思っていた」と言った。日中戦争で日本軍のやったことが今もずっと尾を引いていて、そういう日本人観がまだ根強く残っている。
今の多くの日本人は、近代の一時期、侵略にともなって日本軍は重大なまちがいを犯したが、戦後はきわめて穏健な平和国民でやってきたと信じている。
ジョン・ダワーは、日本人研究の書『敗北を抱きしめて』で、戦後の日本人が敗戦を抱きしめるようにして生きた軌跡を書いている。戦時中は「鬼畜米英」と攻撃していたのを一転して、戦後怒涛のように入ってきたアメリカ文化を日本人は受け入れた。
日本の歴史と中国四千年の歴史をそれぞれ戦争の歴史という観点で調べてみたら、見えてくるものもある。
この前、東大で千人の授業をやったハーバード大学の政治哲学者・サンデル教授は、ハーバード大学の学生ならできたが、日本人の学生は意見発表が苦手であのように授業が深まるかどうか分からないという心配をよそにやってみたら、日本の学生もなかなか自分の意見をしっかり発表する。そういう先入観はまちがっていたと述べていた。日本人にもそう案じていた人が多かったろう。
中国人については、中国人は面子(めんつ)を重んじ、それを傷つけると関係が悪化するとよく言われる。面子を重んじるということは、自尊心があるからだろうし、中華思想も関係するだろう。しかし、日本人も同じようなところがある。
文化大革命の終わりごろ、中国へ行ったら、小学生が列を組んで、赤いスカーフを首に巻き行進してきた。「走資派打倒」を叫んでいる。
この文化大革命では、多くの行き過ぎがあり、悲劇を生んだ。
国家という集団、社会という集団、企業や団体、およそ集団という集団は共通の行動パターンをもつ。集団を引っ張る者の考え・理念、方針、指導が、その集団の性格を染めていく。政治、教育がつくりだした国民性。
それだけではない。環境、風土、生活、歴史などが人間の生き方に大きな影響を与える。
社会生活と自然風土のなかで、人間の頭につくられる観念が行動様式をパターン化させる。
そいう諸々が、そこに暮らす人間に、同じような性格と思わせる行動、国民性を生み出すのだろう。