新聞記事の主観と客観

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「みなさんは、新聞を読みますか。」
生徒たちに質問してみると、読まないという生徒がぱらぱらと手を挙げた。
「新聞やテレビ、インターネットのニュースで、みなさんは情報を得ていますね。そのニュースは事実を伝えているものでしょうか。昨日の新聞で検べてみましょう。」
新聞記事は、テレビがアナログからデジタルに完全に変わった7月24日の様子を伝えているもの。


「記事はほとんど事実を伝えていると思われますが、どうでしょうか。記者の思い、考え、想像などが加わっているところがないか、読んでいって、ここには思いが入っているというところがあれば線を引いてください。みなさんで発見してみましょう。」


事実だけを述べている客観記事と、主観の入った記事との分類。
生徒たちは高校一年生。新聞記事に眼を通し始めると教室はしんとなる。みんなの頭が働いているこの静けさがいい。授業の楽しさだ。
数分たって、記事をみんなが読み終えたようだ。
「では、発表してもらいましょう。」


まずリードから順に探して、その部分を発表していく。A君。
「電話相談窓口や家電販売店は混み合ったものの、全体として大きな混乱はみられなかった。」
「ははあ、どうしてそこが?}
「記者が混み合っていると思っているから。」
B子さんが反論。
「いつもと違ってその日の客が多かったから、混み合ったと書いたんだから、私は事実だと思います。」
「でも、どの家電販売店も混んでいたのか、分からないよ。」
とC君。
「混んでいると感じたのは客数の違いがあったからで、それは事実ではないですか。」
そこで私が、
「中国人がやってきて、中国はもっとにぎやかだから、この程度なら『混んでいる』とは思わないよ、と言うかもしれないね。」
とまぜかえすと、
「それはおかしい。ここは日本で、日本人の感じ方なんだから。」
とB子。
「でも、人によってとらえかたが違うということでしょう。それは事実といえる?」
「電話相談窓口には、いつもよりもたくさんの相談が来たんだから、そう言える数があったんでしょう?」
「全体として大きな混乱はみられなかった、というのも、記者の思いです。」
「混乱というとらえ方が、やはり主観だと思う。」
「でも混乱と言える状態があるのは事実で、そういう状態がなかったというのだから事実でしょう。」


それをかわきりに、主観がまじっていると思うところをみんなで順に出していく。


「(デジサポスタッフにチューナーなどを設置してもらった芹沢さんは)『きれいだねえ。もとのテレビよりくっきり映る』と上機嫌。」
家電販売店に駆け込む人もいた。」
「(今までのテレビが映らなくなったので家電店で購入した男性は)『何だかんだで見られると思っていたが、映らなくなった』と苦笑いした。」


「上機嫌というのは、記者にそう見えた、記者がそう思ったんでしょう。」
「駆け込むと書いているが、本人はそんなに急いでいたのかどうかわからないです。」
「苦笑いというのは、笑ったというのは事実だと思うけれど、苦笑いといえるのかどうか判断が分かれると思う、」


教材にした新聞記事の中から、生徒たちは、9箇所の主観がまじったと思える記事を拾い出した。
「全く議論にならないところと、こういう風に議論になるところがあるということですね。議論になるということは、主観が入っている可能性があるからでしょう。記事はすべて事実を書いているかどうか、テレビのニュースも、記者がある部分を切り取って放送している、切り取るときに主観が入ります。政治の記事になると、この主観が色濃く出ます。記者の批判的意見があり、感情があり、それがニュースに反映してきます。」
「居すわる菅首相」という見出しの記事について意見を出してもらった。


「居すわるという表現には、いやみが感じられます。」
「早く辞めろという思い。」
「辞めると言ったんだから、そうか書かれても仕方がないんじゃないですか。」
「でも、菅首相は、いつ辞めるとは言っていない。」
「首相の思っている法案が通ってからですね。」


感情のつまった表現が、こういう政治のニュースにはたくさんある。


久しぶりに考える授業になった。こうだと教師が断定するのではなく、考えを出し合い聞きあう授業にしていきたい。
しっかりと社会を見る目、世界を観る眼を養う議論を、授業の中につくりたい。