キジ物語の取材

 キジのヒナのことを近所の大友さんと相談した。地方紙の「市民タイムズ」にこの話を伝え、ヒナを育ててくれる人、あるいは組織が探せないだろうか。これはいいアイデアかもしれない。早速「市民タイムズ」に電話を入れた。支社は我が家から車で5分ほどのところにある。
 ちょうど時間が空いていたという記者が車で走って来てくれた。午前の日差しがきつくなってきたが、外で巣の現場を見ながら話した。佐々木さんが孵化させてみようと言って卵を持ち帰るまで、すなわち母キジがたぶんキツネにやられるまでのいきさつをぼくは話した。枯れ草に囲まれたキジの巣はまだ残っている。
 記者が質問する。何日ごろにキジは卵を産み、何日目にアヤ子さんが草を刈って卵を発見したか、そして巣の周りに草を置いたところへ母キジが戻ってきて卵を抱き、何日か経ってキツネにやられる、その日はいつ?
 「えーっと、何日だったかなあ」
 こういう時間経過は頭のなかに明確に記録されていない。なんともはや、あいまいもことしている。ぼくの頭の中のキジ物語前半は、こういう時間軸のことより、キジが道端で卵を抱いていると地域の人々がどんな風に反応していったか、遠くからてくてく歩いて巣をのぞきに来た人とか、巣を刺激しないで守ろうとした人たちとか、そしてキジの母がやられたことで人びとはどのように反応したかなど、そういった人間の姿のほうがおもしろいと思うのだが、しかし、やはり新聞記者は正確な物語を把握したい、事実を正確に把握しなければならない、それは確かだ。確かだけれど、こちらの記憶は漠然としたものだ。
 「佐々木さんが卵を持ち帰って、ヒナがかえる話は、佐々木さんに聞いてくださいよ」
 キジ物語の前半はアヤ子さんとぼくだが、後半は、佐々木さんだ。
そこで佐々木さんの家に行くことになった。ぼくは自転車で先導する。後ろから記者が車で付いてくる。草ぼうぼうの野道だ。おや、前方に田植えをする人がいるぞ、野道にどかんと苗を積んだトラックが止まっている。今ごろ、遅い田植えだ。これでは車は通れない。記者に迂回してもらい、ぼくは自転車でそのまま進んで佐々木さんの家に着いた。あらかじめ連絡してあったから、佐々木さんは家にいるはず、玄関が開いている。ところがほんのちょっと近くの店に買い物に出かけていて留守だった。
 しばらく待つと佐々木さんが帰ってきた。家に上がって、キジのヒナを見ながら、記者は後半の物語を取材した。ヒナは夜中でも時に興奮して騒ぐときがある。騒ぐ一羽を佐々木さんは手のひらに入れて温めてやる。そうするとヒナは落ち着いて目を閉じて眠る。ほかのヒナも落ち着く。そこで眠ったヒナをそっと箱に入れて寝かせてやる。親になった佐々木さんだ。そういう話が特に印象に残った。
記者は、ヒナがかえるまでのことを取材しながら、このキジの話は温かいと言った。記者自身にもツバメのヒナを助けた体験がある。そんな話を交えて記者も、なごんでいる。
 さて、この記者の話では、記事は明日か明後日、「市民タイムズ」に出る。どんな「キジの記事」になるかな。ヒナを育ててくれる人が見つかればいいが。
 学校などで、子どもたちがヒナを育ててみようと考え、実行にうつすところがあるといいのだが。そんな学校、そんな教師、そんな子どもがいると、学校はもっと生き生きした世界になっていくのだが。記者も、佐々木さんも、それを望んでいるように思った。